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連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(4)」
今日は他人の身でも明日は我が身ということもある。

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切腹_0002copyright

 ホームレスには昔からシンパシーを感じていた。だから近所のホームレスに誘われるまま一緒に飲んだという話を友人にしたら、「それはおまえの優越感だよ」と言われたことがある。
友人の指摘をたしかにと思いつつ、一方で世間の束縛から逃れた彼らの自由(もちろん代償は大きい)への憧れも否定できない。
もう一つ頭の片隅にあるのは会社を辞めてフリーランスとなって以後の「明日は我が身」という思い。シンパシーの正体はそれらの感情がないまぜになってのものだと思う。
『切腹』で仲代達矢が演じた浪人はホームレスでこそないが、着物は粗末で、髪は伸び、ひどい無精ひげ。彼の暮らしも娘夫婦の暮らしも困窮を極めている。

 題材は文字通り切腹だ。切腹は『忠臣蔵』の赤穂浪士にも明らかなように、武士の重要な儀式なのだが、江戸時代中期には刀の先で腹を少しつけばその瞬間、介錯人が首を切り落とした。
やがて短刀の代わりに扇子が使われ始めた。ところが、この映画の切腹で使われるのは短刀でも扇子でもなく、竹光。若い浪人が竹光で腹を切るシーンは凄惨で正視に耐えない。
時代は徳川幕府成立から30年ほどの頃だから、本来なら短刀が用いられるはずなのだが、この浪人はなぜ竹光で腹を切らねばならなかったのか……。

 物語は仲代演じる浪人が「竹光での切腹」が行われた井伊家を訪ねる場面から始まる。彼は浪々の身で生き恥さらすより切腹して死にたいので、玄関先を借りたい旨を申し出る。
普通ならお金を渡して追い返すところを、これを許し、庭先を貸すのが三國連太郎演じる家老。仲代は介錯人の到着を待つ間、「今日は他人の身でも明日は我が身ということもある」と、長い身の上話を始める。
実は仲代は竹光で切腹した若い浪人の岳父であり、彼と三國のやりとりによってことの真相が徐々に見えてくる。対話と回想で構成された橋本忍の脚本が緻密で、まるで法廷劇のような面白さ。

 仲代が三國らの所業を糾弾する過程で明らかになるのは藩を取り潰された武士の悲哀や無念である。格差や弱者へのしわよせ、企業のリストラや隠蔽体質など今の時代と重なる要素は多い。
だから仲代が単身権力に抗い、最後に大立ち回りを見せる展開は痛快なのだが、忘れがたい苦味も残る。

 思い出すのは、たとえば福田恆存の「政治というのはなんらかの意味で悪を犯さなければ成り立たない。(中略)政治にかぎらずあらゆる思想というものはみんな悪を持っています」(『人間の生き方、ものの考え方』)という言葉。
ぼくには興味をそそられることの多い江戸時代だが、徳川300年の太平も悪を孕んだ政治や思想の上に成り立つものであり、本作の三國連太郎も悪に目をつぶって自らが属する政治体制を必死に守ろうとする。

 そんなことは百も承知と多くの日本人は時代劇を楽しむわけだが、小林正樹は思想や政治の悪に敢然と対峙し目をそらさない。まっすぐに見つめる。
公開から半世紀以上経ってもこの作品を「明日は我が身」として凝視してしまうのは、小林正樹のまっすぐな視線が描き得た痛烈な苦味があるからだ。

 なお、『切腹』は小林正樹だけでなく黒澤明、木下惠介、市川崑ら日本映画の巨匠の作品に数多く出演した仲代達矢が生涯の一本と公言している作品である。

文 米谷紳之介

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