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小津安二郎生誕120年 連載コラム「わたしのOZU」第12回
「思っていたのと違う小津作品」―『一人息子』 映画監督 三宅 唱

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小津安二郎生誕120年を記念した連載コラム「わたしのOZU」。
各界でご活躍されている著名人の方々にお好きな小津作品を1本選んでいただき、お好みのテーマを切り口とした作品紹介コメントをいただく企画です。

第12回は映画監督 三宅唱さんによる作品紹介です。

三宅 唱 監督

1984年北海道生まれ。主な監督作に『ケイコ 目を澄ませて』『きみの鳥はうたえる』など。最新作は『夜明けのすべて』(2024年2月全国劇場公開予定)。


「思っていたのと違う小津作品」―『一人息子』

 「思ってたのと違う……」。幻滅や失望は、避けられるものならなるべく避けて暮らしたいものだけれど、いくら事前に徹底的に計画しようとしても、絶望は突発的な事故のようにいつでも起こりえるもので、人生のすべてをコントロールできるはずは到底ないし、ではもうなにも期待しないといくら強がってみても、それじゃ食事の一つも楽しめないし、それに、この世の中で最悪な事態が更新されてしまうこと自体はまったく止めることができない。悟りでも開こうか。そうすればどんなときも心穏やかに微笑んでいられるのかもしれないけれど、その道はその道で大変なようだし、となれば、生まれたときから無限の富と権力を手にしているような人以外はみな、大なり小なり期待と幻滅の波間で浮いたり沈んだりしながら、ときにはなにかを学んだり、うそをついたり、後悔したり、ときには先週自分がなににガッカリしたかをちゃんと忘れてまた新しい夢をみたりするほかにないのだろうか。

 それはさておき、映画においてはむしろ、「思ってたのと違う」ことが明らかになる出来事こそ、映画を面白くするチャンスらしい。小津映画から勝手に学んでいる多くのことのうちのひとつがこれだ。「思っていたのとは違う世界を見る」こと。小津のサイレント期には『大学は出たけれど』、『落第はしたけれど』、『生れてはみたけれど』があって、どのタイトルにも「けれど(思ってたのと違う……)」と面白さの秘密が隠されているようにおもえるし、トーキー第一作の題材として選ばれた『一人息子』とは、「思ってたのと違う……」と嘆く母と息子の物語だ。

 必死の思いで上京させた一人息子が、そして息子ばかりでなく恩師までもが、理想や期待とはまるで違う生活を送っている現実を、母はどう見て、どうするのか?「見ること」とは、まず母にとって、見たいものをその期待通りに見ることでは決してなく、見たくないものを見なければならないという経験になる。現実を目にした彼女は、「思ってたのと違う……」という動揺や戸惑いを隠そうとして、なるべく動かず、なるべく無表情に徹しようとする。しかし息子と足を運んだ映画館ではついに、もういい加減いやだといわんばかりに目を閉じ、見ることをいったん放棄する。息子との関係が動き出すのはその直後、帰り道の途中のことだ。イメージした東京とはまるで異なる場所で(白煙たなびくゴミ工場の横の原っぱという、なんというロケーション!)、息子もまた「思ってたのと違うけれど……」という思いを母に告白する。「ひばりが鳴きますねえ」という息子とともに空を見上げても、その姿は見ることができない。その晩、母はもはや目を閉じて眠ることすらままならなくなるのだが、やがてあるとき、偶発的に、新たな息子の一側面、「思ってたのと違う」姿を発見するに至る。

 観客にとってこの映画を「見ること」とは、そうした物語の推移を追いながら、息子夫婦の住む長屋を見る母の背中や、聞かされていなかった孫をはじめてみる母の無表情や取り繕った笑顔を目にしつつ、同時に、目には見えない、キャメラには映らない母の隠された内面の流れを想像し続けるという経験になる。たとえ映画がサイレントからトーキーになろうと、この世界のあらゆることが音声情報(セリフ)によってついにすべて明らかになるなんてことは決してない。『一人息子』において彼らの物語を左右するのが物言わぬ赤子や馬の存在であるのは必然で、最も印象的なのは「無言の背中」を捉えたショットの数々だ。無言の背中や沈黙した姿は、決して一つの意味を帯びることがなく、言い換えれば、意味や解釈から自由になった存在として、赤子や馬同様、ただそこに在る。

 終盤、東京から信州に帰った母は同僚に、東京で目にした通りには伝えず、ホラをふく。その場面は哀しいとも可笑しいとも言えるが(床を雑巾で拭くそのリズムが乱れていく)、その後、工場の裏に腰掛ける彼女は何を思っているのだろうか。たとえ息子の誇らしい行いも目にしたからといって、決して「思ってたのと違う……」という思いが解消されているわけではないことはわかる。

 「思ってたのと違う……」という思いは、その後の『秋刀魚の味』に至るまでの諸作に登場する少なくない人物たちも、それぞれの事情で抱えているものだろう。彼女同様に広島から東京に出てくるあの老夫婦も、戦争から帰ってきたあの男たちも、結婚を勧められるあの女たちも、それぞれが切なる「思ってたのと違う……」という思いをその胸のうちに隠している。あるいは、自分がそれまで何を思っていたのかをはじめて自覚する。そして観客は、思ってたのとは違う家族、思ってたのとは違う結婚、思ってたのとは違う戦後日本を見る。見たいものを見るのではなく、見たくないものを見たり、目には見えないものを見ようとすることを経て、自分たちの社会や自分自身がもともと「何を思っていたのか」を気づくこと。それはどこか自由を感じる経験だと書くのは、気が早いかもしれないが、しかし、説明抜きにそう断定しておく。

 最初に戻ろう。日々の暮らしにおいて「思ってたのと違う……」という幻滅からは逃れられないものだというのは、『一人息子』をとってもどうやら確かな定めらしい。しかし、もしかすると、映画とともに、少しぐらいはそれを「思ってたのと違う!?」という発見の驚きや喜びに変えることができるかもしれないというのも、小津のどの映画をみているあいだにも、確かにはっきりと感じられることだ。『一人息子』のラストから1つ前のショット、工場の裏の大きな門には鍵がかけられていて動きそうにもないが、しかし少し角度と距離を変えた次のショットでは、穏やかな風がまだ若い草木を揺らし、門のむこうへとふいている。

三宅 唱


『一人息子』

原作:ゼームス槇
脚本:池田忠雄 荒田正男
出演:飯田蝶子 日守新一 葉山正雄 坪内美子 吉川満子 笠智衆 浪花友子 爆弾小僧 突貫小僧
製作年:1936年
作品詳細:https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2886/


小津安二郎公式WEBサイトhttps://www.cinemaclassics.jp/ozu/