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連載コラム「OZU活のすすめ」第30回 ~隅田川編 小津安二郎の思い出と名作の舞台を訪ねる橋巡り~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第30回は、隅田川をご紹介します。古くは大川とも呼ばれた隅田川は、江戸の経済を支える重要な輸送経路であり、人々の生活と密接な繋がりを持っていました。隅田川には様々な建築様式の橋が架かっています。江戸時代には渡し船や木橋が利用されましたが、明治時代の中頃から次第に西洋風の鉄橋に架け替えられ、大正12年に発生した関東大震災以降は、最新技術の粋を集めた堅牢で近代的な橋が建設されました。希少な構造や歴史的価値の高さから文化財に指定されている橋も少なくありません。深川に暮らした小津監督にとって、これらの橋は日々の生活に欠かせない存在であり、東京を舞台とする小津作品には隅田川に架かる4つの橋が登場します。今回は隅田川の川畔を歩きながら、小津監督ゆかりの風景をご紹介します。

半蔵門線「水天宮前駅」から徒歩10分ほど、中央区日本橋と江東区清澄を結ぶ「清洲橋」の西詰にやってきました。この地には江戸時代より「中洲の渡し」という渡し場があり、関東大震災後の復興事業の一環として昭和3年に清洲橋が新設されました。

 

清洲橋はドイツケルン市のヒンデンブルク橋をモデルとして設計された吊り橋です。2本の塔柱に施されたアーチ型のデザインと、塔柱から伸びる吊鎖が織りなす懸垂曲線、そして吊鎖から垂直に伸びた吊材が繊細なシルエットを描き出します。清州橋はその優美な姿から「震災復興の華」と称されました。

  

小津監督は隅田川の左岸から見た清洲橋を、昭和35年公開の『秋日和』に登場させています。旧制高等学校の同級生、間宮、田口、平山は、亡き親友・三輪周造の七回忌に参列し、三輪の妻・秋子と娘のアヤ子に再会します。美しく成長したアヤ子に縁談を世話する旧友3人組の奮闘と、結婚を前にした娘と母の美しい絆が描かれます。

 

三輪の法要後、旧友達は秋子とアヤ子を誘い、馴染みの料亭で食事を共にします。画面には料亭の窓から見える夕景の清洲橋が映し出されます。軽快なエンジン音を響かせながら清洲橋の下を小型船が潜り抜けます。夕闇に溶けていく橋のシルエットと浮かび上がる照明の対比、そして隅田川畔の情緒が感じられる美しいカットです。このカットはかつて清洲橋のそばにあった料亭「三田」から撮影されました。

 

改めて『秋日和』のカットを見ると、塔柱のアーチと吊鎖が重ならない絶妙なアングルで撮影されていることが分かります。塔柱と吊鎖が作り出す太く力強いシルエットと、吊り材と照明灯具が描き出す細く繊細なシルエット。小津監督が捉えた構図の美しさに改めて感動を覚えます。

 

隅田川の両岸には約36kmに渡り、親水公園「隅田川テラス」が整備されています。川沿いの風景を眺めながら散歩やジョギングを楽しむことができますよ。清洲橋を後にし、隅田川左岸の遊歩道を歩きながら下流へ向かうことにしましょう。

 

隅田川テラスを暫く歩くと清洲橋の下流に架かる「永代橋」が見えてきます。関東大震災で旧永代橋が焼失してしまったことから、大正15年にリブタイドアーチ構造の現永代橋が再建されました。雄大なアーチ型のデザインはドイツのルーデンドルフ橋をモデルとして設計されました。橋の中央から両端にかけて流れる曲線も美しいですね。重厚で堂々とした姿の永代橋は「帝都東京の門」とも称されました。

 

永代橋は蒲田撮影所に通った小津監督の通勤ルートでした。小津組のカメラマン厚田雄春さんによると、小津監督は蒲田駅から東京駅まで当時は省線と呼ばれた国鉄に乗り、東京駅の北口から門前仲町までバスに乗って帰宅していたそうです。小津監督の昭和8年の日記にはバス車窓からの風景として、永代橋のアーチ越しに見えるセメント工場や、メリヤス屋や化粧品店などが並ぶ永代通りの様子が記されています。

 

小津監督は永代橋を昭和11年公開の『一人息子』に登場させています。『一人息子』は小津監督初のトーキー作品。自然豊かな信州と東京の下町を舞台に、息子の出世を願う母と、母の期待に応えられない息子の悲哀が描かれます。夫に先立たれたおつねは懸命に働き、一人息子の良助を東京の大学にまで進学させます。大学を卒業した良助から就職の報せを受けたおつねは、春になるのを待ちかねて東京へ向かいます。

 

上野駅に迎えに来た良助とタクシーに乗り込み、親子は久々の再会を喜び合います。タクシーが隅田川に差し掛かると、良助は声を弾ませながらこう言います。

 

良助「隅田川、隅田川———永代橋ですよ、向こうに見えるのが清洲橋———」

おつね「そうだか、でっかい橋だなあ」

 

スクリーンにはタクシーから見上げた永代橋のアーチが映し出されます。良助のセリフには田舎から出てきた母に東京の名所を紹介する誇らしい響きが感じられます。昭和11年当時、隅田川に並ぶ2本の橋は未曾有の災害から復興を遂げた東京の象徴であったことが窺えます。

 

隅田川の中央に高層マンションが聳える中央区佃が見えてきました。ここから隅田川は本流と派川(はせん)に分岐し、1km程下流で晴海運河に注がれます。私達はこのまま隅田川の派川に沿って歩いていきましょう。

 

高層マンションが聳えるエリアは、かつて「石川島」という島でした。寛永3年(1626年)頃、徳川幕府の船手頭を務めた石川八左衛門正次が隅田川の中央にあった中洲を拝領し、周囲を埋め立てて造成したことから「石川島」と呼ばれるようになりました。

 

寛政2年(1790年)、幕府は石川島に「人足寄場」を開設し、軽犯罪者や無宿人を収容して社会復帰を目的とした職業訓練や生活指導を行いました。幕末の嘉永6年(1853年)には黒船来航に危機感を抱いた幕府の命により「石川島造船所」が開設され、日本初の洋式軍艦が建造されました。

  

隅田川に注ぎ込む大横川の連絡橋を渡り、江東区越中島にやってきました。かつて隅田川の中洲であったこの土地は、江戸時代に旗本・榊原越中守照清の屋敷があったことから「越中島」と呼ばれるようになりました。

 

越中島は小津監督と深いゆかりがあります。大正12年3月、宮前村の代用教員を辞した小津監督は、先に上京した家族が待つ深川区和倉町(現江東区冬木)の家に落ち着き、8月に松竹蒲田撮影所に入社します。9月1日に発生した関東大震災で和倉町の家と亀住町(現江東区深川1丁目)の湯浅屋は焼失し、家族は越中島の広場に避難して二晩を過ごしました。小津監督は蒲田撮影所から徒歩で帰り、避難した家族と無事再会することができました。小津監督の父・寅之介さんが遺した手帳には、震災当時の緊迫した様子が綴られています。

 

越中島と佃を結ぶ相生橋を渡ります。淡いミントグリーンのトラス桁橋は平成10年に架橋された三代目の相生橋です。

 

明治時代に入ると隅田川の河口には上流から流入した土砂が溜まり、船の航行が妨げられて大きな問題となりました。明治16年から川底の土砂を取り除く浚渫(しゅんせつ)工事が開始され、工事で出た大量の土砂を活用して佃島の南側に土地造成が行われました。明治25年、現在の中央区月島1〜4丁目にあたる埋立地「月島一号地」が誕生しました。

 

明治時代後半になると月島は工業地帯として急速に発展し、対岸からの架橋が望まれるようになりました。明治36年、越中島と新佃島の間に相生橋が新設されます。初代相生橋は関東大震災の際に焼失し、大正15年に震災復興事業の一環として二代目相生橋が再建されました。隅田川の派川は大型船の運行が少なかったことから、シンプルな構造の桁橋が採用されました。小津監督は昭和23年公開の『風の中の牝雞』に二代目相生橋を登場させています。

 

『風の中の牝雞」は小津監督の戦後第2作となる作品です。舞台は戦後間も無い東京の下町。主人公の時子は幼い息子・浩とともに出征した夫・修一の帰りを待ち続けています。苦しい生活の中、浩が急な病気で入院することになります。入院費が払えず途方に暮れた時子は知人に仲介を頼み、見知らぬ男性に一度だけ身を売ってしまいます。浩が快復した頃に復員した修一は、どうやって入院費を工面したのか時子を問い詰めます。真実を知った修一は時子を許すことができず、夫婦の間には大きな溝が生まれてしまいます。

 

身を売った場所が月島の曖昧宿であることを時子から聞き出した修一は、相生橋を渡って月島へ向かいます。晴れた日の朝、橋の上には修一の他誰もいません。思い詰めた表情で歩く修一を月島行きの市電だけが追い越していきます。ガランとした相生橋に修一の空虚な心が反映されているかのような印象的なシーンです。

 

月島に着いた修一は、路地の中に建つ曖昧宿を探し当てます。工業地帯として発展した月島には多くの労働者が移り住みました。碁盤の目に区分けされた街区には等間隔に路地が作られ、細い路地に沿って労働者が住む長屋が建てられました。月島には今も多くの路地が残り、その数は100本を超えるといわれています。

 

関東大震災の際、月島は対岸からの飛び火によって大規模な火災に見舞われました。商店街や路地には震災後の復興期に建てられた懐かしい佇まいの建物が残り、玄関先に置かれた植木鉢や風鈴の音が人々の暮らしの息吹を伝えてくれます。

 

月島を後にして中央区勝どきへ。明治27年に月島一号地の南に造成された埋立地「月島二号地」が現在の勝どき1〜4丁目にあたります。最後に勝どきと築地を結ぶ「勝鬨橋」の袂を訪れました。

 

昭和15年に架橋された勝鬨橋は、隅田川を航行する大型船舶が通航できるよう、橋の中央が大きく跳ね上がる跳開(ちょうかい)橋として建設されました。この場所には日露戦争の旅順陥落を記念して開設された「勝鬨の渡し」という渡し場があったことから、その名に因んで勝鬨橋と命名されました。

 

月島の曖昧宿で部屋に通された修一の元に房子という女性が現れます。老いた父と弟のために身を売る房子の身の上を聞いた修一はいたたまれなくなり、宿を出て勝鬨橋を望む空き地に佇みます。そこへお弁当を手にした房子がやって来ます。手作りのふかしパンを分けてもらった修一は、房子の勤め口を探す約束をして空き地を後にします。

 

修一と房子がふかしパンを食べた場所はこの辺りでしょうか。空き地の対岸には昭和10年に開設された築地市場がありました。関東大震災で被害を受けた日本橋魚河岸に代わって新設された筑地市場は、平成30年に豊洲市場へ移転するまで80年以上に渡り東京の台所として活況を呈しました。現在は築地市場跡地の再開発工事が進められており、勝どきから見る隅田川対岸の景観は大きく変わろうとしています。

 

隅田川を下りながら小津作品に登場する4つの橋を巡った今回のOZU活。関東大震災復興の象徴となった美しい橋に感動するとともに、小津作品に込められた故郷深川への思いを感じることができました。また、江戸の昔から人々の暮らしと密接な繋がりを持つ隅田川の歴史にも触れることができ、楽しい散策となりました。そろそろ涼しい秋風が吹き始めます。隅田川の歴史や小津監督の思い出を辿りながら、名作の舞台を訪ねてみませんか。

 

文:ごとう ゆうこ

 

『秋日和』  https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2827/

『一人息子』 https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2886/

『風の中の牝雞』 https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2877/

小津安二郎公式サイトhttps://www.cinemaclassics.jp/ozu/