連載コラム「OZU活のすすめ」第29回 ~茅ヶ崎編 小津安二郎が愛した茅ヶ崎館と名作の舞台となった風景を訪ねて~
カテゴリ:連載コラム「OZU活のすすめ」
皆様こんにちは。OZU活のすすめ第29回は神奈川県茅ヶ崎市をご紹介します。神奈川県の湘南地域に位置し、自然豊かな高座丘陵と相模湾の間に広がる茅ヶ崎市は、一年を通して温暖な気候に恵まれた都市です。湘南海岸の中心に位置する茅ヶ崎海岸からは「烏帽子岩」の名で親しまれる姥島を始め、江ノ島や富士山を望む美しい景観が広がります。茅ヶ崎海岸の近くには小津監督が脚本執筆の場とした旅館「茅ヶ崎館」があり、数々の脚本がこの地で誕生しました。今回は小津監督が愛した茅ヶ崎館を訪ねるとともに、名作の舞台となった茅ヶ崎の風景をご紹介します。

茅ヶ崎市は人気バンド「サザンオールスターズ」のボーカル・桑田佳祐さんの出身地として知られています。明治31年に開設された茅ヶ崎海水浴場は平成11年に「サザンビーチちがさき」と改称され、茅ヶ崎駅からビーチへ続く「サザン通り」は、夏になると海水浴やマリンスポーツを楽しむ人々で賑わいます。茅ヶ崎市を東西に横断する鉄砲道とサザン通りが交わる交差点を超え、小さな脇道の傍に現れた案内表示を左折すると、閑静な住宅地の中にひっそりと佇む茅ヶ崎館が迎えてくれました。

茅ヶ崎館の創業は明治32年。初代当主の森信次郎は、日本郵船で御用船の機関長を務めた人物でした。信次郎は船で相模湾を通る内に、景色のいい湘南海岸に旅館を開きたいと願うようになります。茅ヶ崎館創業の前年、明治31年に東海道本線の藤沢駅と平塚駅の間に茅ヶ崎駅が開業しました。駅の開業と同時に茅ヶ崎海水浴場が開設され、信次郎は海水浴客を見込んで茅ヶ崎海岸の近くに念願の旅館を創業しました。

昭和11年、松竹の撮影所が蒲田から大船へ移転すると、茅ヶ崎館は松竹脚本部の定宿となります。庭に面した中二階棟の一番、二番、三番の客室が映画監督や脚本家の仕事場として使われるようになりました。茅ヶ崎館の他にも箱根湯本と二宮町に同様の指定旅館があり、日常の雑事から離れて脚本の執筆に専念することができました。小津監督が初めて茅ヶ崎を訪れたのは昭和12年のことです。静かな環境が気に入った小津監督は、以来茅ヶ崎館を執筆の場とするようになります。

小津監督が茅ヶ崎館で滞在する客室は決まっていました。8畳の和室に広縁が付いた「二番」の客室です。小津監督が本格的に茅ヶ崎館で仕事をしたのは昭和21年から30年にかけてのこと。昭和21年2月、小津監督は軍報道部映画班員として派遣されていたシンガポールから帰国します。母・あさゑさんが疎開していた千葉県野田市で休養を取った後、数年ぶりに茅ヶ崎館を訪れた小津監督は、脚本家の池田忠雄さんと共に戦後復帰作となる『長屋紳士録』の脚本を完成させました。
昭和25年からは脚本家の野田高梧さんと仕事をするようになります。小津監督より10歳年長の野田さんは、小津監督の監督デビュー作『懺悔の刃』(昭和2年公開)の脚本を書き、その後も何度か小津作品の脚本を書いたベテランの脚本家でした。昭和10年公開の『箱入娘』以来14年振りにコンビを組んだ2人は、茅ヶ崎館で『麥秋』や『東京物語』など6本の脚本を執筆しました。

小津監督と野田さんは茅ヶ崎館で寝食を共にしながら脚本を書きました。宿の食事が続くと飽きてしまうため、2人は調理道具や調味料を揃えて自炊をするようになります。今も二番の客室に残る青い火鉢で目玉焼きや干物を焼き、金物屋で買い求めた鉄瓶で酒の燗をつけました。

茅ヶ崎館滞在中に書かれた小津監督の日記には、自炊の献立が記されています。すき焼き、鶏鍋、湯豆腐などの鍋物、とんかつ、カキフライ、天ぷらなどの揚げ物、野菜炒めにドライカレー、時にはスープから手作りした中華そばを振る舞うこともありました。座卓には調味料や食器を置いた跡が幾つも残り、天井は調理に使われた油で黒く光っています。小津監督と野田さんの生活の跡が今も静かに二番の客室に息づいています。

日記には宿泊客についての記述も多く見られます。大広間で行われた同窓会や結婚式、女子野球団の合宿、漁師・酒屋・床屋など様々な業界の寄り合いや宴会があったことも分かります。五代目当主の森浩章さんが、小津監督は宿泊客を観察しながら脚本のヒントを探していたのではないかと話してくださいました。
小津監督の人間観察は宿泊客だけにとどまりません。客室係の中居・おゆうさんに風呂係のお仲さん、そして茅ヶ崎館当主の子供達の様子をじっと観察していたといいます。茅ヶ崎館の人々と触れ合う中で、女中さんから聞いた愉快な話や子供達がキャラメルを包み紙ごと食べてしまった可愛いエピソードが脚本に反映されました。

※写真提供:太陽の郷
小津監督と野田さんは執筆の合間に茅ヶ崎の街を散歩しました。駅前の商店街で食材を買い、馴染みになった本屋や薬屋に立ち寄りました。茅ヶ崎の歴史に興味を持った2人は、歌舞伎役者の九代目市川團十郎や川上音二郎・貞奴夫妻が建てた別荘跡へも足を運びました。中でも2人が強く興味を惹かれたのは、東洋一と謳われた結核療養所「南湖(なんこ)院」でした。

明治32年、医学博士の髙田畊安(こうあん)は茅ヶ崎市南湖に結核療養所「南湖(なんこ)院」を創設しました。特効薬がなく不治の病といわれた結核は、空気が綺麗な土地で安静に過ごし、滋養のある食事で免疫力を上げることが最良の治療法とされました。温暖な気候と清浄な空気に恵まれた茅ヶ崎は理想的な療養地であったといえます。
広大な芝生の中に14棟にも及ぶ病棟が立ち並び、院内には図書館や理髪室など生活に必要な施設が整えられました。野菜の栽培を始め養鶏や養豚も行われ、新鮮な食材が患者の食卓を彩りました。衛生面の設備も充実しています。汽罐室から送られる高温蒸気を利用して汽消毒釜でスチーム消毒を行った他、当時は先進的だった水洗トイレが導入されました。排水は敷地内の汚水浄化装置で浄化され、結核菌が外部に流出しないよう細心の注意が払われていました。
南湖院は茅ヶ崎館にも深いゆかりがあります。明治 41 年 2 月、作家の国木田独歩が南湖院に入院します。親友の田山花袋の呼びかけで独歩を慕う文壇の仲間が足繁く見舞いに訪れましたが、4ヶ月の療養生活の後、独歩は36 歳の生涯を閉じました。花袋らは独歩の死を悼み、茅ヶ崎館に集まって別れの宴を開きました。文学が好きだった小津監督はこの話を聞くと大変興味を持ち、文人達が集った当時の様子を何度も女将に尋ねました。
昭和20年5月、南湖院は日本海軍に接収され、46年の歴史に幕を下ろします。終戦後はアメリカ軍に接収され、昭和32年まで陸軍駐屯地「キャンプ・チガサキ」として使用されました。小津監督と野田さんは南湖院跡に行ってみましたが、当時は敷地に入ることが叶いませんでした。 2人は南湖院の副院長を務めた高橋博士を訪ねて往時の様子を聞くとともに、昭和11年の献立表を見せてもらったといいます。

昭和54年、南湖院跡に有料老人ホーム「太陽の郷」が創設されました。平成27年に旧南湖院の第一病舎が茅ヶ崎市へ寄贈され、太陽の郷と茅ヶ崎市の協働で「南湖院記念 太陽の郷庭園」として一般公開されています。療養患者の増加により拡張を重ねた南湖院は、昭和初期には5万坪の敷地を誇りました。太陽の郷に隣接する県立高校や市立中学校、そして周囲に広がる住宅地もかつては南湖院の敷地だったと聞き、その広大さに圧倒されました。晴天の日には正門前の富士見台から美しい富士山を望むことができます。花々に彩られた庭園には石垣や池など旧南湖院の遺構が残り、訪れる人に往時の面影を伝えてくれます。もし小津監督と野田さんがこの庭園を自由に散策できたら、季節の草花を愛でながらどんな話をしたのでしょうか。

小津監督は豊かな砂丘が広がる茅ヶ崎の海を愛しました。海岸沿いには国道134号の前身である「湘南遊歩道路」(県道片瀬大磯線)が走っていました。昭和20年代は自動車の往来も殆どなく、相模湾を眺めながらのんびりと散歩することができました。小津監督と野田さんは茅ヶ崎館の裏口から砂浜を歩いて湘南遊歩道路へ出ると江ノ島を眺めながら東へ歩き、また別の日は富士山を正面に見ながら西へ歩きました。時には砂丘の上に並んで腰掛け、海岸に打ち寄せる波を眺めながら語り合うこともありました。

小津監督は自身が愛した茅ヶ崎の風景を何度も映画に登場させました。その中から茅ヶ崎海岸の風景が印象的な2作品をご紹介します。まずは昭和22年公開の『長屋紳士録』です。小津監督の戦後復帰作となった『長屋紳士録』は、焼け跡に建つ長屋で暮らす人々と、父親とはぐれた少年・幸平の触れ合いを描いた作品です。長屋の住人から幸平の世話を押し付けられたおたねは、幸平の父親を探すために茅ヶ崎を訪れます。親子が暫く間借りしていた家の主婦に尋ねてみますが、父親の行方は分かりません。

がっかりしたおたねと幸平は茅ヶ崎海岸に並んで座り、おにぎりを頬張ります。おたねは幸平を砂浜に置き去りにしようとしますが、幸平は砂浜を懸命に走って必死におたねを追いかけます。何度追い払おうとしてもおたねの後を付いてくる幸平の姿が、おかしくも切ないシーンです。

おたねと幸平が並んで江ノ島を眺めたのはこの辺りでしょうか。砂浜には竹製の防砂柵が幾重にも並び、劇中と変わらぬ風景が広がっています。茅ヶ崎海岸では昭和50年頃から砂浜の侵食が大きな問題となりました。ダム建設や河川開発によって相模湾へ流出する土砂が減少し、かつては50mもあった砂浜が殆ど消失してしまったといいます。平成18年から相模ダムに堆積した土砂を海岸線に投入する養浜事業が行われ、20年近い歳月をかけて美しい砂浜が再生されました。

昭和26年公開の『麥秋』は、間宮家の末子・紀子の縁談を主軸に、親子3世代が同居する家族の人間模様を描いた作品です。小津監督は穏やかな日常の中に紀子の友人関係や戦死した兄への思いを交差させ、新しい世代へと受け継がれる生命の営みや人生の無常を鮮やかに描き出しました。

物語の後半、結婚を控えた紀子と義姉の史子が砂丘の上で語り合います。紀子は上司が勧める縁談を断り、戦死した兄と親友だった謙吉と結婚する道を選びます。資産もなく、死別した妻との間に3歳の子供がある謙吉との結婚を皆が心配しますが、紀子は笑顔で新しい生活への希望を語ります。

紀子と史子は砂丘を駆け降り、肩を並べて波打ち際を歩きます。間もなく謙吉の赴任先である秋田県へ旅立つ紀子は、故郷の海を瞳に焼き付けているのかもしれません。水平線には茅ヶ崎のシンボルである烏帽子岩が小さく見えています。紀子と史子の友情にも似た爽やかな絆が、茅ヶ崎海岸の風景と共にいつまでも胸に残ります。

昭和29年8月、野田さんは兄から譲り受けた蓼科高原の山荘「雲呼荘」に小津監督を招待しました。小津監督は蓼科高原の豊かな自然と土地の人達の純朴な人柄に魅了されます。昭和31年、小津監督と野田さんは数々の名作を産んだ茅ヶ崎を離れて雲呼荘に執筆の場を移しました。
昭和25年、東海道本線の東京と沼津間で中距離電車(通称:湘南電車)の運行が開始されると、茅ヶ崎から都心へのアクセスが飛躍的に向上しました。昭和30年代に入ると茅ヶ崎海岸から続く砂丘地帯は宅地化され、郊外には大規模な団地群が造成されます。風光明媚な別荘地だった茅ヶ崎は、高度経済成長期の訪れとともに都心のベッドタウンとして発展していきます。小津監督と野田さんが執筆の場を蓼科に移した昭和31年は、戦後復興期を終え、日本が大きく変貌していく時代の転換期であったといえます。

小津作品の舞台となった茅ヶ崎海岸や小津監督と野田さんの散歩道をのんびりと巡った今回のOZU活。茅ヶ崎館では名作が生まれた二番の客室で、小津監督の脚本作りに思いを馳せることができました。
小津作品以外にも様々な映画やドラマの舞台となっている茅ヶ崎では、映画を通じて地域活性化の取り組みが行われています。毎年開催される「茅ヶ崎映画祭」は、市民の方々が主体となってスタートした手作りの映画祭。第15回を迎える今年は、10月10日から11月23日まで開催されます。市内5カ所のホールや映画館が会場となり、映画上映やトークショーの他、映画作りの楽しさを体験できる演技・脚本ワークショップが行われます。この秋は茅ヶ崎で映画の魅力に触れるとともに、小津作品の舞台となった風景を訪ねてみませんか。美しい風景と波の音が皆さまの心に静かな余韻を残してくれる筈です。
文:ごとう ゆうこ
『麥秋』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2855/
『長屋紳士録』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2869/
小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/












