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連載コラム「OZU活のすすめ」第31回 ~銀座編 小津安二郎が愛した銀座の風景と名店を訪ねて~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第31回は銀座をご紹介します。銀座という地名の由来は慶長17年(1612年)、駿府にあった幕府の銀貨鋳造所「銀座役所」が江戸に移転したことに始まります。銀座役所が置かれた新両替町(現銀座2丁目)は通称「銀座」と呼ばれるようになり、明治2年に銀座が公式な町名となりました。

 

明治5年、後に「銀座大火」と呼ばれる大規模な火災で銀座一帯が焼失すると、明治新政府は焼け跡に耐火性に優れた近代的な街並みを整備します。広々とした銀座通りには煉瓦敷きの歩道やガス灯が設けられ、通りの左右に煉瓦造りの洋館が建設されました。明治10年に完成した「銀座煉瓦街」には輸入品店や新聞社が開業し、銀座は文明開化を象徴する街として発展していきます。今回は小津監督が愛した銀座の名店を訪ねるとともに、小津作品に登場する銀座の風景をご紹介します。

 

銀座のランドマークといえば、銀座4丁目の交差点に聳える「セイコーハウス」の時計塔です。角地に沿って優美なアールを描くネオ・ルネッサンス様式のビルは、昭和7年に旧服部時計店の本社ビルとして建設されました。ビルの屋上に設けられた時計塔からは、正時になると時打ちの鐘と共に荘厳なウェストミンスター式のチャイムが鳴り響きます。

 

明治14年、服部金太郎は采女町(現銀座5丁目)に服部時計店(現セイコーグループ)を創業しました。明治27年に銀座4丁目交差点に面した角地を購入し、服部時計店は銀座一等地への進出を果たします。新しい店舗の最上階には高さ50尺(約15m)の時計塔が設置され、銀座の街に時打ちの鐘を響かせるようになりました。大正10年、初代時計塔は老朽化のため解体され、新店舗の建設工事が始まります。しかし、大正12年9月1日、関東地方に大きな被害をもたらした関東大震災の発生により、工事は中断を余儀なくされました。

 

震災から9年後の昭和7年、銀座4丁目の交差点に地上7階・地下2階建ての服部時計店本社ビルが完成しました。6月10日「時の記念日」に待望の落成式を迎え、交差点に面した大きなショーウィンドウや洗練された豪華な内装が話題となりました。各階の売り場には舶来の時計や宝飾品を始め、蓄音機・カメラ・ラジオなどの高級品が並びました。ビルの屋上に設けられた二代目時計塔は、銀座のシンボルとして再び時を刻み始めます。

 

昭和8年5月30日(火)

一略一

▲ヂャマン・ベカリーでサンドウイッチをたべながら服部の時計を聞く

 

監督に昇進して6年、29歳の小津監督の日記には服部時計店の時計塔が度々登場します。落成から1年余りの服部時計店はまさに銀座のトレンドスポットだったのでしょう。この年の日記には紳士雑貨と喫煙具の売り場があった服部時計店の地下に立ち寄ったという、お洒落な小津監督らしい記述も見られます。

 

服部時計店の周辺には小津監督お気に入りの飲食店も多くありました。嘉永年間創業の「竹葉亭(ちくようてい)」銀座店もそのひとつです。竹葉亭は幕末の頃、剣術道場「士学館」に通う武士達の刀を預かる留守居茶屋として創業しました。昭和初期の東京には竹葉亭の支店が14店あり、銀座にはすずらん通り入口の「銀座西店」と、現銀座店が建つ晴海通りの「銀座東店」がありました。

 

竹葉亭は鰻の名店ですが、小津監督のお気に入りは「鯛茶漬け」でした。鯛茶漬けを注文すると、ごまだれが掛かった鯛の刺身とお櫃に入ったご飯が運ばれてきます。小津監督はまず鯛をつまみにお酒を飲み、残った鯛でお茶漬けを楽しみました。店長の今泉さんによると、当時のごまだれは醤油の分量が多く、現在よりも塩辛い味付けだったとのこと。少量の刺身で十分お酒のおつまみになったのかもしれませんね。

 

元は刺身の切り落としを使った賄い料理であったという鯛茶漬け。桜色の鯛に特製ごまだれをたっぷりと絡めてごはんに乗せ、熱いほうじ茶をかけていただきます。ごまだれのこくが鯛の旨みを一層引き立て、何杯食べても飽きが来ない美味しさです。胃腸に優しく消化の良い鯛茶漬けは、食欲が落ちる季節や疲労が溜まった時の食事としてもお勧めです。お酒を楽しんだ後の締めとして注文されるお客も多いそうですよ。

 

小津監督は女優の水久保澄子さんや逢初夢子さんと共に銀座の竹葉亭を訪れたことを日記に記しています。

 

昭和8年6月6日(火)

▲高山 加賀と銀座に出て水久保 逢初と竹葉でめしを喰ふ

▲港屋 村の珈琲店

服部の時計が八時を打つた 竹葉のよしの戸から銀座の夜の町が美しい 

九時がなつて one hour with you だ

 

服部時計店の時計塔の鐘と竹葉亭の葭戸越しに見える銀座の夜景・・・なんとも心華やぐ情景です。舶来の帽子を被った長身の小津監督と美しい女優さん達が連れだって銀座を歩く様子はとても絵になったのではないでしょうか。竹葉亭銀座店の2階座敷からは銀座4丁目交差点の時計塔を間近に望むことができます。ライトアップされた時計塔を眺めながら鯛茶漬けを楽しんでみたいですね。

 

作家、画家、演劇人など多くの芸術家に愛された銀座の街。明治40年代、銀座には「カフェー」の開店が相次ぎました。貴族や芸術家の社交場であったパリのカフェに倣い、美しい意匠が施された店内で当時は珍しかったブラジル産のコーヒーや香り高い洋酒などが提供されました。洋行帰りの芸術家や新聞記者等が集い親交を深めたカフェーは、華やかな芸術サロンの役割を果たすとともに、日本における喫茶店文化の原点ともなりました。

 

関東大震災の復興期には、女給のサービスでお酒を提供する洋風の酒場「カフェー」が誕生します。銀座の街には華やかなネオンが輝くカフェーが軒を連ねるようになりました。昭和3年から歴史を重ねる老舗バー「銀座・ルパン」も当初はカフェーとして創業しました。開店の際は、後に小津監督と公私に渡って深い交流を結んだ作家の里見弴等が支援を行いました。

 

銀座に黄昏が迫る頃、みゆき通りに面した路地にシルクハットを被った怪盗ルパンの看板が浮かび上がります。「Lupin」と書かれたドアを開けると地下へ続く細い階段が現れます。両脇の壁には長い年月を物語る幾つもの傷が刻まれ、階段を降りる度に時を遡っていくような不思議な感覚を覚えます。

 

ルパンには多くの作家、演劇人、映画人が集いました。小津監督は映画監督の成瀬巳喜男や山中貞雄、岸松雄等と足繁くルパンに通いました。

 

昭和9年1月1日(月)

銀座うらの酒場ルパンで―――

酔から醒めるといつのまにか正月元旦だ

ほのぼのとした銀座を岸松雄 成瀬巳喜男とあるいて帰る

 

昭和9年の元旦、夜通し飲み明かしてルパンで新年を迎えた小津監督は、深川の自宅まで歩いて帰った様子を日記に記しています。

 

時の重みが凝縮された店内で一際存在感を放つのが、昭和10年から使用されているヤチダモのカウンターです。この年からルパンは本格的なバーとして営業を始めました。入居するビルは昭和47年に建て替えられましたが、その際はカウンターを始め全ての内装を取り外し、ビルの躯体が完成した後に元通りに配置したといいます。

 

昭和16年、敵性語として英語が排斥されるようになると、ルパンは麺包亭(ぱんてい)と名を変えて営業を続けました。昭和19年には決戦非常措置要綱に基づき、劇場や酒場の休業が命じられました。昭和21年、ルパンはコーヒー店として営業を再開します。同年に写真家の林忠彦がルパンで撮影した、織田作之助、坂口安吾、太宰治等無頼派作家三氏の写真は、終戦直後の風俗を鋭く切り取った作品として後に有名となりました。

 

昭和21年にシンガポールから帰国した小津監督もまたルパンを訪れるようになります。小津監督の日記には作家の里見弴や映画評論家の津村秀夫とルパンを訪れた記述があります。昭和28年、津村秀夫とルパンを訪れた日の日記に登場するハイボールを作っていただきました。ルパンには時々小津監督ファンの方も訪れるとのこと。戦前の雰囲気を色濃く残した空間で、小津監督が愛したモダン東京に思いを馳せてみては如何でしょうか。

 

戦争は銀座の街に大きな傷跡を残しました。昭和20年1月27日、東京の中心部を襲った大規模な空襲で銀座一帯の建物は殆ど焼失してしまいます。被害を免れた服部時計店本社ビルは、昭和20年に進駐軍に接収され、PX (基地内売店)として使用されました。激動の昭和20年代、小津監督は『晩春』、『お茶漬の味』、『東京物語』と3つの作品に時計塔を登場させています。

 

昭和24年公開の『晩春』は、小津監督が脚本家の野田高梧さんと14年振りにコンビを組んだ作品。女優の原節子さんが初めて小津作品に出演したことでも話題となりました。妻を亡くした大学教授の曾宮周吉は、一人娘の紀子と2人で鎌倉に暮らしています。父を案じて叔母が勧める縁談を断ろうとする紀子に、周吉は自分も再婚するから安心して結婚してほしいと嘘をつきます。小津監督は結婚を前に揺れる紀子の心を、鎌倉と京都の美しい風景とともに格調高く描き出しました。

 

劇中には紀子が買物に出かける銀座の風景として、接収されていた服部時計店が登場します。焼け残ったビルの合間に木造の商店や住宅が立ち並び、戦災からの復興が進んでいることが窺えます。銀座通りの教文館・聖書館ビルは、当時アメリカのタイム社とライフ社の日本オフィスとして使用されていたことから、壁面に雑誌名を記した大きな広告が掲げられています。

 

昭和27年、接収が解除された服部時計店の建物で、服部時計店の小売部門を継承して設立された「和光」が営業を開始しました。昭和29年6月10日の時の記念日からは時打ちの鐘と共にウエストミンスター式チャイムが時を告げるようになり、「和光の時計塔」は広く親しまれるようになります。戦後の復興を終え、高度経済成長期を迎える昭和30年代には高速道路や近代的なビルが次々と建設され、銀座の街は華やかな文化と流行の発信地として大きく発展していきます。

 

昭和35年公開の『秋日和』に「和光」の名が登場します。夫を亡くした秋子は一人娘のアヤ子と2人で東京のアパートに暮らしています。アヤ子は亡き父の旧友達から縁談を勧められますが、母を1人残して結婚する決心がつきません。旧友達はアヤ子が安心して結婚できるよう、秋子に再婚を勧めようと計画します。どこか『晩春』を彷彿とさせるストーリーの今作品は、『晩春』で紀子を演じた原節子さんが、娘を嫁がせる母親・秋子役を演じました。

 

洋裁学校の講師を務める秋子は、仕事帰りに銀座で待ち合わせをしようとアヤ子の勤め先へ電話をします。

 

アヤ子「じゃ、和光の角ね。………うん………じや、あたし、少し早く出て、小父さまンとこへ寄ってから行きます。………ええ………ええ………じゃ」

 

アヤ子は同僚達と出かけるハイキングの買物をし、秋子はミシンの針や食料品を購入します。買物の途中でとんかつ屋に入り、ビールを飲みながら夕食を共にする母娘。2人のやり取りから銀座の百貨店や専門店の豊富な品揃えや、和光の時計塔が待ち合わせ場所として親しまれている様子が伝わってきます。

 

最後に小津監督お気に入りの和菓子店「空也」を訪れました。明治17年に上野池之端で創業した空也は、夏目漱石を始め多くの文豪や歌舞伎役者等から愛された老舗の和菓子店です。池之端の店は昭和20年3月の東京大空襲で焼失し、昭和24年に銀座並木通りへ移転しました。

 

戦前から池之端の店に通っていた小津監督は、銀座に移転した後も度々空也を訪れました。家族へのお土産を購入したり、脚本を執筆した茅ヶ崎館や蓼科高原の雲呼荘を訪れるお客がお土産に持参することもありました。

 

空也を代表する「空也最中」は、可愛い瓢箪型の焦がし皮につぶし餡をたっぷり挟んだお菓子です。空也最中の特徴は香ばしく焼き上げた焦がし皮。初代当主が親交のあった歌舞伎役者・九代目市川団十郎の楽屋を訪ねた際、火鉢で軽く炙って勧められた最中が香ばしくて大変美味しかったことに着想を得て生まれたのだとか。焦がし皮の軽やかな食感と小豆の粒を程よく残したつぶし餡が見事に調和しています。

 

注:写真は6月~9月にかけて使用される夏用包装紙となります。 

小津監督と空也最中にまつわる愉快なエピソードをご紹介しましょう。昭和29年8月、雲呼荘に滞在していた小津監督と脚本家・野田高悟さんの元に、映画プロデューサー・児井英夫さんの来訪を告げる電報が届きます。山の生活では東京の味が何よりの御馳走です。美味しいものに目がない2人はお土産を楽しみにしながら、豚肉と鮭缶の鍋を用意して児井さんを歓待しました。ところが、2人の期待に反して児井さんはお土産を何も用意していなかったのです。雲呼荘に置かれた「蓼科日記」にはこの日の出来事がユーモアたっぷりに記されています。

 

「山崎、児井来りなバ嘸かし土産もありぬべし。空也の最中、鮒佐の佃煮、森半の海苔、B&W ETC 垂涎三昧 想像を逞しくせしに 両人空手厚顔にも来る。まことに不愉快 まことに滑稽也。」と小津監督が書けば、「両氏は四時すぎ、自動車で来る。期待に反し、空也のモナカどころか、何一つ土産なく、児井君 殊の外 恐縮す。」と野田さんも書いています。仕事の報告に訪れた児井さんは、2人がお土産を熱望していたとは夢にも思わず恐縮しきり。蓼科日記には、帰京した児井さんが沢山の東京グルメを鉄道便で送ってくれたことが記されています。

 

五代目当主の山口彦之さんは創業からの伝統を大切に守り続けています。良い素材を厳選し、その日に売り切れるだけのお菓子を作るのが空也のこだわり。丁寧な手仕事が生かされた空也のお菓子は、銀座を代表する珠玉の手土産として愛されています。

 

昭和7年の落成式から90年を迎えた令和4年6月10日、時計塔の建物は「和光本館」から「セイコーハウス」へと改称されました。銀座の歴史を見つめ続けた時計塔は、新たな時代へと時を刻み続けています。小津作品に登場する銀座の風景と小津監督ゆかりの名店を巡った今回のOZU活。近代的な街並みの中に小津監督が愛した銀座の面影を感じることができました。今回ご紹介した以外にも、銀座にはまだまだ多くの小津スポットがあります。日記やグルメ手帖を頼りに、改めて小津監督の思い出を辿ってみたくなりました。

 

文:ごとう ゆうこ

日記引用:「全日記 小津安二郎」

     「蓼科日記抄」

『晩春』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2861/

『秋日和』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2827/

小津安二郎公式サイトhttps://www.cinemaclassics.jp/ozu/