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連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(15)」
天下は広くとも、私たちに安住の地はありません。

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映画のアクションシーンは身体能力に優れた役者が超絶的な体技を見せれば面白いというものではない。そのアクションがどんな空間に存在しているかが問題だ。主人公を始めとする登場人物がどのような空間で、どのような動きをみせてくれるのか。結局、場所や環境や天候の選択がアクションの魅力を生かしも殺しもする。

 たとえば、『燃えよドラゴン』のブルース・リーの肉体が鏡の間にあることで一層神々しく見えたように、『七人の侍』のクライマックスの合戦に土砂降りの雨とぬかるみが必要だったように、ジェイソン・ボーンの至近距離での高速の格技にキッチンやバスルームといった狭小空間がリアリティを与えたように、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の棒跳び隊と呼ばれるトリッキーな一団の躍動に砂煙が舞う荒野ほどふさわしい空間はなかったように……。

頭に浮かぶ場面を挙げるだけでもきりはないけれど、『侠女』もまた空間とアクションが見事に連動した傑作と言っていい。とりわけ映画史的に高い評価を得ているのが物語の中盤、竹林で繰り広げられる剣戟シーン。軽やかに林を疾走し、跳躍する姿は格闘である前に舞いでもあるような優雅さにあふれ、後年のアン・リー監督『グリーン・デスティニー』の原型だとは誰もが思うはずである。それにしてもワイヤーワークとトランポリンによるものとはいえ、CGなどない時代にどうやって撮影したのかと思われるほど鮮やかに役者たちがスクリーンを横切っていく。

 他にも巨岩がそそり立つ峡谷や廃屋のような砦など武侠映画の巨匠キン・フーらしい空間センスが随所に炸裂し、ついには予想もしなかったアバンギャルドな世界へと空間は転調する。こうした撮影が評価され、公開から4年後の1975年にカンヌ国際映画祭高等技術委員会グランプリを受賞している。

 しかし、この映画、アクションだけの作品ではない。時代は『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』と同じく宦官が秘密警察を牛耳っていた明王朝の動乱期。大臣だった父が秘密警察に謀殺されて一味に執拗に追われる娘と、彼女を好きになってしまった書生の悲恋が物語の軸である。互いに惹かれながら、娘は「天下は広くとも、私たちに安住の地はありません」と、自分といっしょにいる危険を男に諭さなければならない。

 追われた女の哀しみというと、ぼくは画家であり詩人でもあったマリー・ローランサンの有名な詩「鎮静剤」(堀口大學訳)をふと想ってしまう。少し長いけれど引用したい。

 

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 

 この詩の「女」を「人」に差し替えてもあまり違和感はないと思うのだが、あえて女性の哀れさに優劣をつけているところがユニークで、ローランサンによれば「忘れられた女」「死んだ女」に次いで「追われた女」が哀れなことになる。

本作で「追われた女」の悲哀を演じたのはこれが初主演となる、当時20歳の徐楓。口数の少なさが逆に印象を強烈にしていて、増村保造映画における大楠道代(当時は安田道代)の野性と若尾文子の色気を兼ね備えていると言ったら褒めすぎだろうか。劇中で彼女が琴を弾きながら歌うシーンがいい。

哀調を帯びた琴の音色と「追われた女」の孤独が伝わってくる詩がなんとも切ないのだ。こちらの詩は李白の「月下独酌」である。

文 米谷紳之介

 

3/18(土)~大阪九条・シネヌーヴォにて上映開始!

シネ・ヌーヴォ劇場公式サイト:http://www.cinenouveau.com/
「残虐ドラゴン」「侠女」作品HP:http://www.shochiku.co.jp/kinghu/

 

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キン・フー監督作品DVD/ブルーレイ、2017年6月7日発売予定!!

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