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「木下惠介生誕110年」秦早穂子さん連載コラム第5回・最終回
ベージュと藍-『はじまりのみち』

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 木下惠介監督作品の紹介を引き受けた時、これらの作品を同時代に見た記憶を書ければと希望したが、原恵一監督の『はじまりのみち』だけは、今回、初めて見て、監督の私生活の一端を知った。
 映画はまず作品を見るのを原則にして、監督や俳優を取材する事は、あまりない。60年以上も昔になるが、ヨーロッパ映画の選択に従事した時期があった。日本は現在とは違った政治的・経済的状況で、国全体が貧しく、1ドルが360円の固定相場制。外国出張社員は、ひとりでなんでもこなす。私の場合は監督や俳優にも会って、宣伝向けの取材をするのが仕事のひとつ。出会ってすぐに、その人の生き方、気質を云々するのは、おこがましいと考えたものだ。

 『陸軍』撮影後のエピソードを皮切りとする『はじまりのみち』は、戦争末期の木下惠介の銃後体験。私の子ども時代の記憶と交差する所も多い。
 それにしても、人はそれぞれ。優しさ。意地悪さ。人情の違い。加瀬亮演じる木下惠介像は、監督の本質の一面を掴んでいると思う。木下監督は優しい人と言われる。それは感受性の豊かさ、繊細さであり、だから、同時に鋭く、厳しい面も持っていた。
 というのも、一度お目に掛かったことがあるのだ。全く別の機会には、田中絹代さん、そして高峰秀子さんともお話しする機会があった。意図しない偶然こそが、今回の縁に繋がったのは、とても不思議な気がする。そんな事情とは露知らず、この連載企画をたてられた松竹の担当者の直感に感謝する。

 1950年代の半ば。ボーイフレンドが会わせたい女友達がいるという。音楽関係の仕事をしている頭の回転の早い人で、のちに木下監督の弟御で作曲家の忠司氏夫人となった。忠司さんが出演された『破れ太鼓』も見ていたが、お目にかかった頃は、落ち着いた大人の男のひとで、示唆に富んだ短い言葉が印象的だった。 
 「デコちゃんは、苦労したから」。その一言だけで、女優高峰秀子の半生は、多少、想像がついた。
 「いい豆腐の湯豆腐が一番だね」。若いから、いつも湯豆腐でもとは思うが、何でも反抗的な私が、忠司さんの言葉には耳を傾けた。
 ただ、忠司さん、夫人、ボーイフレンドの3人は、麻雀好きで、4人目のひとりが見つかると、亡国の遊戯と暴言を吐く私はお祓い箱になるのであった。

 ある日、兄に会ってみないかと、忠司さんに言われた。私がジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』やルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』を買い付けた頃で、松竹の若手映画人が、ゴダールに騒ぎはじめたせいもあろう。

 場所は、3人組がよく使う銀座のエスコフィエ。木下監督、監督の実妹の楠田芳子さん、その夫で木下組のカメラマンの楠田浩之さんなど。正面に監督。左右に並ぶはご一家。面接試験のような状況で、私の右隣りは忠司さんだが、泰然と座っているだけ。監督が聞きたいのは、ヌーヴェル・ヴァーグ一派の具体的な仕事ぶりなのだろうか。監督のぎょろ目が迫る。ぎょろ目のあとは、冷たい視線が一瞬光る。『はじまりのみち』で、加瀬亮が見せる視線である。食いしん坊な私だが、その日は何を食べたかも覚えていない。
 直観的に感じたのは、監督は女に厳しい人だという事。『はじまりのみち』で描かれたように、あれほど、一心に母上を守りたい男の人にとって、母に勝る存在がないのは当然。似通ったケースは、パリで出会った監督たちの場合にも、たまさか経験した。

 『陸軍』で息子を追う母。『楢山節考』では息子に負ぶってもらう母。そして『はじまりのみち』で、山道を必死にリヤカーで母を運ぶ惠介。すべての道は、脈々と続き、この道は木下惠介の人生と作品の核へと導かれ、貫かれる。


 女に厳しい木下監督が、高峰秀子との映画を一番多く撮った。何故だろう。
 頭の回転が早く、ずばずば発言する。勘が鋭く、時にはシニックで意地悪に聞こえるが、実はとても繊細だ。そんな共通点が、二人にはある。

 昭和12年(1939)『樋口一葉』で、少女美登利を演じた高峰秀子を初めて見た。 昭和16年(1941)に、主演映画『馬』を。サトウハチロウの歌詞の「めんこい仔馬」の歌は、今でも、たまに歌う。ラストのデコちゃんのアップ。なんて笑顔のいい人だったろう。

 最初に高峰秀子さんにすれ違ったのは、勤め始めた会社の玄関。彼女がパリに行く前で。滞在の便宜を図る手立てがフランス系の会社にはあったから、その事で寄ったのだろう。暗い顔だった。
 正式に会ったのは、彼女が丸の内に骨董の店「ピッコロモンド」を開いている頃。私も西洋ガラスに興味があり、共通の編集者の仲立ちで、互いの持ち物を買った。それまでにも高峰さんの事は間接的には知っていた。というのも、パリで彼女の面倒をみていたマダムは、戦前から日本人の知り合いが多く、マダムの女友達が、私のフランス語の先生であり、彼女たちは、戦前・戦後の日本人の留学生、のちに偉くなった先生や評論家の話をしていたから。彼女たちにとっては、日本の映画スターの存在は初めてであった。

 高峰さんが『恍惚の人』を撮っている1972年頃。長年病気であった父を亡くし、ようやく本当に独立して、何かと波風の多い時代の私を激励してくれたのは、高峰さんだった。東京会館でライスカレーを御馳走して下さり、ここはカレーが一番よ、と言いながら、勘のいい彼女は私の問題を察知していた。それも大人の優しさ。厳しさ。忠司さんの「デコちゃんは苦労したから」の言葉が思い返された。
 ある日、彼女は『恍惚の人』の扮装のままベンツに乗って、私の仮住まいのアパートを奇襲した。じろり眺め、「こんな所にいたら、もやしになってしまうよ」と、手作りのお弁当を差し入れて下さった。感動した。


 2012年度の日本映画ペンクラブ賞を著書「影の部分」などで私が受賞し、「木下惠介生誕100年プロジェクト」が奨励賞、その表彰式が開かれた。忠司さんはそのころ、清里に移られ、電話で話し、会いたいね、と言われたが、それも叶わなかった。

 我が家には、 忠司さんの形見となったベージュの大皿と、高峰さんの藍の小皿がある。2011年の東日本大震災の時も、日本の土の皿はびくともしなかった。もやしはカビが生えているが、まだ、悪態をつき、木下惠介作品のロングショットで引いた映像―歴史と名もなき人間を見つめる距離と視線―の意味が、ようやく分かりはじめたこの頃である。

2022年11月2日 秦 早穂子


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◎池袋・新文芸坐にて特集上映「生誕110年 信念の人・木下惠介」開催!

【開催期間】 2022年12月5日(月)~12月16日(金)
【上映作品】 『二十四の瞳』、『カルメン故郷に帰る』など全10本

【トークイベント】
12/5(月)11:45『楢山節考』上映後、秦早穂子さん(映画批評家)、古賀重樹さん(日本経済新聞社)によるトークがございます。

▼詳細はこちら

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◎今年は木下惠介生誕110年。
2022年12月5日に生誕110年を迎える木下惠介監督。
代表作『二十四の瞳』を始めとした、幅広い作風で人々を魅了してきました。
今回の周年を契機として、2022年~2023年にかけて、木下惠介の作品世界に触れる様々な取り組みを、松竹シネマクラシックスにてご紹介いたします。

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