連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(58)」
憎しみおうたあげくの果てに、何が残るか…。私も地獄の苦しみを生きてみましょう。
カテゴリ:コラム "銀幕を舞うコトバたち", 松竹映画100周年
映画は音楽によって大きく表情を変える。喜色を湛えた笑顔にも、哀しみをこらえた憂い顔にも、勇気が沸き立つような雄々しい顔にもなる。
たとえば、音楽の力をまざまざと見せつけた映画がクロード・ルルーシュの『男と女』(1966)である。簡潔なセリフとスケッチを思わせる軽快な映像、それにボサノバ風の音楽を溶け合わせることで極上の恋愛心理劇を完璧に語り切った、映画史上に残るエポックメイキングな作品だった。後のミュージックビデオにも大きな影響を与えた。
実は、木下惠介も音楽を大胆に用いてみせた作家である。『二十四の瞳』(1954)では唱歌と風景の叙情を共鳴させ、『永遠の人』(1961)に至っては、全編をフラメンコギターのメロディで覆いつくしてしまった。
戦中戦後の1932年から1961年までの約30年に及ぶクロニクルである。全体が5章に分けられ、章の変わり目には歌も入っている。日本の家族を描いた物語であるのにフラメンコは似合わないという意見も公開時にはあったようだが、今観ると少しも違和感はない。阿蘇山の裾野に広がる田園風景のなかで繰り広げられる愛憎劇は、そのスケールを含め、およそ日本人離れしている。
30年に渡って憎しみ合う夫婦の心情にフラメンコギターの情熱的な音色が重なると、どこか遠い外国の物語にも思えてきて、米アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたのも得心がいくのだ。
夫婦を演じるのは仲代達矢と高峰秀子。仲代達矢は戦争で足を負傷し、除隊して実家に帰って来る。大地主の一人息子である彼は、小作人の娘の高峰秀子を力づくで手籠めにしてしまう。高峰秀子には親も認める恋仲の男(佐田啓二)がいるのだが、彼はこのとき出征中だった。
川で自殺を図った高峰秀子は、結局、助け出され、仲代の嫁にさせられる。しかし、彼女は暴力で犯され、恋人との仲を引き裂かれたことを恨み、憎み続ける。3人の子が生まれてもその思いはくすぶり続ける。
「人間には忘れられることと、忘れられんことがあります」
毅然とこう語り、どこまでも夫を憎み抜く。
一方の仲代達矢も、妻がどんなに冷淡でも、反抗的でも離婚はしない。ひたすら彼女に執着し、服従させようとする。その思いは意地を通り越し、もはや執念である。
こんな男と女が一つ屋根の下に暮らしているのだから、口論は絶えず、激しく罵り合う。切っ先鋭いナイフのような言葉が両者の間を行き交うのだ。
長男(田村正和)が失踪してしまったときの2人のやりとりが凄まじい。
「ぬしと俺とは未来永劫に憎み合うぞ!」
「憎んでください。憎しみおうたあげくの果てに、何が残るか…。私も地獄の苦しみを生きてみましょう。あんとき死にぞこなったばっかりに、かわいそうな子を産んでしまいました」
映画の終盤にも痛烈な言葉が交わされる。
「あなた、死ぬるときは後悔します」
「俺が先に死ぬと思うとるか。俺が先に死ぬか、ぬしが先に死ぬか、どっちでん、残ったほうが骨壺をぶったたきゃよか」
さながら仲代達矢と高峰秀子の演技バトルである。映画では同い年だが、実年齢は高峰秀子のほうが8つ上。俳優座出身の仲代達矢の本格的な映画デビューが24歳だったのに対し、高峰秀子は5歳の頃から子役で活躍し、14歳で主役を演じた早熟の人だった。このとき29歳の仲代が終始、熱量の高い演技で押せば、37歳の高峰は憎悪の奥にニヒリズムを漂わせ、緩急自在の演技で応じる。
2人は『あらくれ』(1957)、『女が階段を上るとき』(1960)、『女の歴史』(1963)といった成瀬巳喜男作品でも共演しているが、真正面からぶつかって演技の火花を散らしたのが本作だ。『男と女』のアヌーク・エーメとジャ=ルイ・トランティニャンとは似ても似つかない、しかし間違いなく観た人の記憶にいつまでも残るカップルである。
そして、このどうしようもなく救いのないの物語を、最後の最後にサラッと、胸にすく場所に着地させた木下惠介の演出も見事だ。
文 米谷紳之介
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