連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(31)」
ギャングの旅に終わりなんてねぇ。
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萩原健一より、やはり「ショーケン」の響きがしっくりくる。そのショーケンの訃報を知ったとき、なぜか無性に観たくなったのが『いつかギラギラする日』だった。
ぼくがショーケンの演技に最初に魅せられたのは同世代の多くがそうであったようにテレビドラマ『傷だらけの天使』である。高度成長も熱い政治の季節も終わり、「シラケ世代」という言葉が浸透していた時代、世の中からはみ出して生きることをあんなにカッコよく演じられたら憧れないのが不思議で、大学に入って上京すると、さっそく見に行ったのがドラマのロケに使われたペントハウスのある代々木のビルだった。アルバイトをしてすぐに買ったのはMEN’S BIGIの服。ドラマでショーケンが着ていたからで、われながら単純である。
にもかかわらず、真っ先に観たくなったのが『いつかギラギラする日』なのはなぜだろう。事件やスキャンダルの影響もあって、晩年のショーケンは必ずしも作品に恵まれたとはいえず、最後に輝きを放ったのがこの作品だったからかもしれない――当初はそう考えたのだが、違った。あらためて映画を観て、自分の直感が間違っていないことがわかった。
中年ギャングの話である。監督は『仁義なき戦い』シリーズの深作欣二。『傷だらけの天使』では第1話と第3話の監督をしていて、ファンには待望のショーケン&深作コンビの映画だった。冒頭からテンポ快調である。2つの現金強奪事件をわずか20分ほどで描いてしまう深作演出ならではのスピード感と臨場感に息をのむ。この頃の深作は『火宅の人』や『華の乱』のよう文芸作品を撮ることが多かったが、なんといっても活劇の人。アクションの快楽に酔わせる術を心得ている。
ショーケンをリーダーにした千葉真一と石橋蓮司の中年強盗3人組の仕事っぷりが鮮やかだ。しかし、プロフェッショナルである彼らが木村一八と荻野目慶子の若いカップルに裏切られ、翻弄されていく。そこに金貸しをしているヤクザ組織も加わり、三つ巴の激しいバトルが繰り広げられる。もちろん、警察も黙ってはいない。
公開当時、荻野目慶子の狂気をはらんだ演技はずいぶん話題になった。「オーケー、もっとロックンロール!」と恍惚の表情で叫びながら機関銃を連射する姿は、『セーラー服と機関銃』で「カ・イ・カ・ン」の名セリフを残した薬師丸ひろ子など比較にならないほど危うい色香をまき散らす。しかし彼女でさえショーケンの引き立て役でしかなく、千葉真一、と石橋蓮司以外に原田芳雄、樹木希林、安岡力也ら個性的な俳優が顔を揃えているのだけれど、ショーケンの前ではいずれも影は薄い。それほどショーケンが放つオーラは凄まじく、ギラギラしっぱなしだ。たとえば、仲間を失い、単身ヤクザの事務所に乗り込み、相手を問答無用で蹴散らす迫力と機敏な身のこなし。これがショーケンにとって唯一のアクション映画というのが信じられない。満身創痍となり、絆創膏を鼻の上に貼った顔にさえ男の色気が漂う。
終盤には木村一八との激しい一騎打ちとハードボイルドな会話が用意されている。敗れた木村一八が「終わっちまったなぁ」とつぶやくと、ショーケンが憮然と言い放つ。
「ギャングの旅に終わりなんてねぇ」
「ギャング」の言葉を「役者」か「アウトサイダー」に言い変えれば、まるでショーケン自身の生き方そのものではないか。直後に素早いナイフのやり取りで木村一八にとどめを刺すのだが、ここも粋なセリフで決める。
「死ぬまでにもう1、2分ある。24でくたばるんだ。好きな歌の一つも歌って死ね」
映画はこれでは終わらない。
数十台のパトカーに囲まれて絶体絶命、もはや万事休すと思われたところで、ショーケンは車で驚異の脱出劇を見せる。それが荒唐無稽に感じられるどころか、突き抜けたような解放感を呼び覚ますのがこの映画の真価である。日本映画でこれだけの数のパトカーを踏みにじり、潰した作品もないだろう。そして逃げ終え、さすがに意気消沈した様子のショーケンがバスの中から次々に見える銀行の看板を前に、徐々に目を輝かせていくラスト。ここに彼自身が歌う『ラストダンスは私に』が聴こえてくる。
公開当時、客の少ない映画館で思わず立ち上がって拍手したのを思い出す。何があってもへこたれず、何があっても絶対にくたばらない。そんなショーケンの姿をぼくはもう一度見たかったのだ。
映画のオープニングで引用されるポール・ニザンの言葉も今となってはショーケンへの献辞と言っていい。
「人間は自由でない限り、夜ごと夢を見るだろう」
最期まで自分を貫き、闘い続けた表現者だった。
文 米谷紳之介