小学校時代の木下は詩や童話の創作活動を行う、いわば“小さな童話作家”であったが、その後浜松工業紡績科に入った彼は、潔癖症が災いして手が油まみれになるのが我慢できず、学科への興味を失ったまま卒業し、好きな映画の道へ進もうと決意する。しかし当時の松竹は大卒しか監督助手を採らず、そこで彼は写真学校に入ってフィルムとレンズについて学び、33年に現像部員として蒲田撮影所に入所。その三カ月後に撮影部に移り、やがて島津保次郎監督に認められて助監督になるのであった。