プロフィール

木下監督について

日本映画史に輝く名作『二十四の瞳』をはじめ、 ヴェネツィア国際映画祭正式出品の傑作『楢山節考』、 日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』、 米アカデミー賞外国語作品賞ノミネート『永遠の人』など数々のヒット作を生み、世界が認める功績を残した木下惠介。
日本映画最盛期に、黒澤明と共に人気・評価を二分し、日本映画界の一時代を築いた天才監督。

木下監督は、あるインタビューで“映画監督”についてこう語っています。

映画監督っていうのは、
本当の人間を描くために、毎日毎日考え日夜苦労しているわけです。
理屈でいっても忘れちゃうけど、
泣いて映画を見た心はいつまでも印象に残るんだと思う。
それが映画監督の
社会における義務だと思う。

その言葉通り、木下監督は生涯にわたり、日本人の強さ、弱さ、美しさ、喜びや悲しみの物語を通して<本当の人間>を描き続けました。その徹底した姿勢から、“信念の人”とも言われています。

信念の人 × 挑戦者

写真提供:木下惠介記念館

一方、映像表現への実験精神は旺盛で、日本初のカラー映画、全編斜めに撮影されたフレームや鮮やかな部分着色など革新的なアイディアと技術を取り入れています。
さらには、当時誰よりも早くテレビ界へ進出するなど、固定の枠に捉われず、多様な様式を取り入れ、自由自在に駆使した映像作家でもあります。

木下監督は、生涯49本の映画作品を撮りました。
“コメディの天才”と称される喜劇の数々、“泣かせの木下”とも言われた抒情的作品、革新的で実験性に富んだアート作品、 世の中に疑問を投げかける社会派作品など、そのジャンルや作品の多様性は類をみません。
また、テレビ界では、一世を風靡した「木下恵介アワー」「木下恵介劇場」で日本のテレビドラマの礎を築きました。 映画、テレビにわたりバラエティに富んだ木下作品は、見る者を飽きさせません。

しかし、その作品の根底には一貫して、木下監督の見つめ続けた<本当の人間>の姿が描かれています。

木下惠介略歴

1912.12.5
静岡県浜松市に生まれる。
1933(21才〜)
松竹蒲田撮影所現像部に入社。島津保次郎の助監督を務める
1940(28才)
日中戦争へ召集
1943(31才)

監督デビュー作『花咲く港』公開 <山中貞雄賞受賞>

※同賞は、同年『姿三四郎』でデビューした黒澤明監督と共に受賞

1944(32才)

『陸軍』公開

※母親が出征する息子を延々と追いかけるラストシーンが当時波紋を呼ぶ

1951(39才)
日本初の長篇カラー映画『カルメン故郷に帰る』公開
1954(42才)

『二十四の瞳』公開 <米ゴールデングローブ賞外国語映画賞ほか受賞>
『女の園』公開

※『二十四の瞳』と『女の園』で、キネマ旬報ベスト・テン第1・2位を独占

同年第3位は、黒澤明監督『七人の侍』

1955(43才)

『野菊の如き君なりき』公開

※回想シーンを白い楕円形のマスクで囲った斬新な手法と泣ける物語が話題に

1957(45才)

『喜びも悲しみも幾歳月』公開 大ヒットを記録

※主題歌も大ヒット流行歌となる

1958(46才)

『楢山節考』公開 <ヴェネツィア国際映画祭正式出品>

※歌舞伎や文楽の音楽要素を取り入れ、全篇を大型セットで撮影

1961(49才)
『永遠の人』公開 <米アカデミー賞外国語作品賞にノミネート>
1964(52才)
『香華』公開
松竹を退社
テレビドラマ「木下恵介劇場」(TBS)スタート(~67年)
1967(55才)
テレビドラマ「木下恵介アワー」(TBS)スタート(~77年)
1970(58才)
テレビドラマ「人間の歌」シリーズ(TBS)スタート(~77年)
1977(65才)
紫綬褒章を受章
1984(72才)
勲四等旭日小綬章を受章
1988(76才)
『父』公開
1991(79才)
国の文化功労者に選出
1998(86才)
12月30日 逝去(享年86歳)
2009
キネマ旬報オールタイム・ベスト 日本映画6位『二十四の瞳』
2012.12.5
生誕100年を迎える