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連載コラム「OZUのすすめ」第22回 ~蒲郡編 『彼岸花』ロケ地と小津安二郎思い出のクラシックホテルを訪ねる~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第22回は、愛知県蒲郡市をご紹介します。愛知県の南東部に位置する蒲郡市は、温暖な気候と豊かな自然に恵まれた観光都市です。市の南端に広がる三河湾と沖合に浮かぶ竹島は三河湾国定公園に指定され、古くから風光明媚な観光地として親しまれてきました。竹島周辺は小津作品『彼岸花』のロケ地であり、小津監督が作家の志賀直哉や里見弴と共に訪れた思い出の地でもあります。今回は『彼岸花』のロケ地となった美しい風景と、小津監督が宿泊したクラシックホテルを訪ねました。

昭和33年公開の『彼岸花』は、小津監督初のカラー作品です。映画の公開に先駆けて里美弴が書き下ろした原作小説が発表され、小津監督がスクリーンに描き出した色彩美は大きな話題となりました。主人公の平山渉は55歳。中学時代の友人達は皆年頃の子供を持ち、平山の長女・節子にも縁談が持ち上がります。ある日、平山の元に節子との結婚を認めてほしいという青年が現れます。両親に内緒で結婚相手を決めた娘に平山は怒り心頭。節子の結婚を巡って平山家に騒動が巻き起こります。

物語の終盤、平山は中学のクラス会に参加するため蒲郡を訪れます。クラス会が行われる旅館近くの風景として、蒲郡のシンボルである竹島が画面に映し出されます。穏やかな海にぽっかり浮ぶ竹島と、島に向って一直線に伸びる竹島橋が印象的な美しいカットです。

竹島海岸の沖合400mに浮かぶ竹島は、周囲約620mの小さな無人島です。島の中央に鎮座する八百富神社は江ノ島や厳島神社と並ぶ日本七弁財天の一つとされ、開運、安産、縁結びの神様として親しまれています。

八百富神社の創建は養和元年(1181年)。平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した歌人・藤原俊成が、琵琶湖の竹生島より弁才天を勧請したことに始まります。三河国の国司を務めた俊成は、琵琶湖の竹生島に似た竹島の風景に親しみを持っていたといわれています。

古くから神域であった竹島には古来の原生林が維持されています。対岸とは全く異なる植物体系が築かれていることから、昭和5年に島全体が国の天然記念物に指定されました。八百富神社にお参りする際は、ぜひ海岸に沿って島を半周できる遊歩道を歩いてみてください。竹島の豊かな自然と三河湾の景観を楽しむことができますよ。

クラス会の翌朝、佐分利信さん演じる平山と、笠智衆さん演じる友人の三上が竹島橋の上で語り合います。平山と同じく娘の交際問題に悩んでいた三上ですが、どうやら雪解けを迎えつつあるようです。「ま、結局子供には負けるよ……。思うようにはいかんもんだ………」晴々とした顔の三上と話す内に平山の表情も徐々に柔らかくなっていきます。頑なだった平山の心が朝の海に溶けていくような、爽やかな余韻を残すシーンです。

笠智衆さんの背後には丘の頂上に聳える「蒲郡ホテル」(現蒲郡クラシックホテル)と、瓦屋根の料理旅館「常磐館」が見えます。丘の中腹にある大きな建物は、100畳の大広間を持つ常磐館の宴会場です。劇中でクラス会が行われた旅館は、常磐館がモデルだと思われます。

竹島一帯の観光開発を行ったのは、愛知県の絹織物商「瀧兵右衛門商店』(現株式会社タキヒヨー)の五代当主・瀧信四郎でした。竹島海岸に別荘を所有していた信四郎は、静養に訪れる内に美しい風景に魅了され、竹島海岸を多くの人が訪れる観光地にしたいと願うようになります。

写真提供:蒲郡クラシックホテル

明治45年、竹島海岸に常磐館を開業した信四郎は、一流作家を無料で滞在させ、作品中に蒲郡や常磐館を登場させてもらうという斬新なタイアップを考案します。菊池寛、志賀直哉、川端康成ら日本を代表する文豪達が常磐館に滞在しました。大正11年、菊池寛が新聞小説『火華』の舞台を常磐館としたことから蒲郡は全国的に知名度を上げ、「蒲郡の常磐館か、常磐館の蒲郡か」と謳われるようになりました。

竹島海岸をより魅力的な観光地にしたいと願う信四郎は、遊園地や大衆娯楽場を整備し、私財を投じて建設した竹島橋を蒲郡町(現蒲郡市)へ寄付しました。更に蒲郡町と協力し、常磐館の背後にある丘の頂上にリゾートホテルを建設します。昭和9年3月、着工から2年の歳月をかけて完成した蒲郡ホテルは、鉄道省国際観光局により、第1回 国際観光ホテルに指定されました。

写真提供:蒲郡クラシックホテル

蒲郡ホテルの開業と前後して周辺地域からのバス運行が始まり、多くの人が竹島を訪れるようになりました。信四郎は大衆向けの宿泊施設「竹島館」を建設し、蒲郡町に寄付しました。潮干狩りや海水浴を楽しめ、レジャー施設も充実した竹島一帯は日本有数のリゾート地へと成長していきます。

第二次世界大戦中の昭和19年、蒲郡ホテルを始め竹島一帯の観光施設が陸軍病院として接収されます。戦後は連合軍の保養施設として使用され、昭和27年にようやく接収が解除されました。営業を再開した蒲郡ホテルと竹島には、再び多くの観光客が訪れるようになりました。日本列島のほぼ中央に位置する蒲郡は、東海道本線を通じて東西からのアクセスが良く、新婚旅行の地としても人気を博しました。
常磐館は昭和5 5年に惜しまれつつ廃業し、昭和57年に解体されました。常磐館の跡地に開設された「海辺の文学記念館」には、常磐館を愛した文豪達の資料と共に、蒲郡が登場する文学作品が紹介されています。

年表や貴重な写真など、常磐館と蒲郡ホテルに関する資料も充実しています。天井に吊るされた一際大きな照明器具は、100畳敷の大広間で使用されていたもの。柔らかな橙色の灯りが、在りし日の常磐館の面影を伝えてくれます。

記念館の奥には常磐館の客室が再現されています。鏡台や文机など実際に館内で使用されていた調度が配置され、時を超えて常磐館に滞在しているようなひと時を味わえます。

写真提供:蒲郡クラシックホテル

本館のものか、丘の中腹にあった宴会場のものかは判明していませんが、常磐館の座敷の写真です。縁側の向こうには立派な植栽が見えています。小津監督ファンの方はこのお座敷をどこかで見たような気がしませんか?

『彼岸花』劇中のクラス会のシーンです。建具や座敷の雰囲気が常磐館の写真とよく似ています。カメラの位置が変わると、床の間の造りも似ていることが分かります。小津監督はロケハンの際に撮影した写真を元に撮影用のセットを作ったといいます。もしかしたらクラス会のセットも常磐館の座敷を元に作られたのではないでしょうか。

蒲郡でのクラス会は、小津監督とコンビを組んでいた脚本家・野田高梧さんの体験に基づいています。昭和31年9月、『東京暮色』の脚本執筆のために小津監督と蓼科に滞在していた野田さんは、蒲郡で行われた中学のクラス会に参加しました。

クラス会の翌日、野田さんは同窓生達と蒲郡ホテルに立ち寄りました。蓼科に戻った日の日記には、「夕食後、ストーリーの話、蒲郡あたりのクラス会など取入れようといふ話になる。」と、早速小津監督にクラス会の話をしたことが記されています。蒲郡ホテルから眺めた美しい風景が野田さんの創作意欲を刺激したのでしょうか。『東京暮色』には採用されませんでしたが、蒲郡のクラス会は 『彼岸花』の脚本に取り入れられることとなります。

野田さんがクラス会に参加する3ヶ月前の昭和31年6月、小津監督は作家の志賀直哉、里見弴と共に蒲郡を訪れています。浜松から関西を巡る5日間の旅の途中、3人は蒲郡ホテルに宿泊しました。

白樺派の代表的な存在であり「小説の神様」と称される志賀直哉は、常磐館を愛した文豪の一人です。昭和16年、蒲郡の地で随筆『内村鑑三先生の想ひ出』を執筆しました。また昭和30年には、蒲郡ホテルの案内で300年以上続く「三谷祭」を見物しています。

小津監督は志賀直哉の熱心な読者であり、特に戦地で読んだ『暗夜行路』に深い感銘を受けました。志賀直哉もまた小津作品の良き理解者であり、年齢の離れた2人は爽やかな友情で結ばれていました。終生憧れの存在であった志賀直哉を、小津監督は「チョクサイ先生、チョクサイ先生」と呼んで慕ったといいます。

志賀直哉等が創刊した『白樺』の同人であった里見弴は、洒脱な会話劇や繊細な心理描写を得意とし、優れた文学作品を多く残した作家です。鎌倉を拠点に活動した里見弴は、小津監督や野田さんと親しく交際し、共に盃を傾ける仲でした。

蒲郡ホテルは昭和55年に営業を終了し、ホテルの伝統と歴史は「蒲郡プリンスホテル」、そして「蒲郡クラシックホテル」へと受け継がれてきました。令和6年には開業90周年を迎え、日本を代表するクラシックホテルの一つとして営業を続けています。

正面玄関ではシルクハットを被ったドアマンが迎えてくれます。案内されたエレベーターには、美しい半円形の指針板が設置されていました。昇降に合わせて時計のように針が移動する指針板は、開業当時から使用されている貴重なもの。アール・デコ様式の意匠が随所に施されたフロントロビーは、落ち着いた雰囲気の中にも建物が重ねた歴史と風格が感じられます。

高台に建つホテルからの眺望は素晴らしく、2階バルコニーからは三河湾の向うに渥美半島を望むことができまます。小津監督もこの美しい景色を眺めたに違いありません。一万坪の敷地には桜やつつじなどの木々が植えられ、季節の花々や紅葉に縁取られた風景を楽しむことができます。

クラシカルな雰囲気に真紅のテーブルクロスが映えるメインダイニングルームでは、本格的なフランス料理を楽しむことができます。天井付近の漆喰には寺社建築の斗組を思わせる装飾が施されています。和洋折衷の意匠が格調高いメインダイニングルームによく調和しています。

里見弴は、蒲郡での旅の思い出を後に書き残しています。蒲郡ホテルでの一夜が明け、朝食のために食堂に集った3人。先に席に着いていた志賀直哉はいきなり小津監督にこう言いました。「小津君、きみは朝から酒を飲むんだろう?」お酒が大好きな小津監督ですが、敬愛するチョクサイ先生の前で朝酒を嗜むことはとてもできません。「いや、とんでもないこってす。朝はとてもいけない、朝からはいただけません。」必死に辞退するものの志賀直哉は自らバーカウンターに立ち、ビールを一本取って来て小津監督のコップに注ごうとします。この時の小津監督は後にも先にもないほど恐縮していたそうですよ。小津監督が志賀直哉に抱いた深い憧憬が伝わるエピソードです。

小津監督の思い出が残るメインダイニングルームで、蒲郡ホテル時代の人気メニュー「ビーフ・カツレツ」をいただきました。蒲郡ホテルが営業を終了した後はレシピの詳細が失われていましたが、総料理長・波多野忠明さんの調査により、復刻メニューとして甦りました。

蒲郡ホテルに勤めていた調理人から聞き取りを行い、当時の調理方法を忠実に再現しています。新鮮な牛肉をチーズと香草を加えた衣で包み、少量の油で揚げ焼きしたビーフ・カツレツ。ルビー色の切り口とチーズの香ばしい香りが食欲をそそります。肉の旨味を引き立てるデミグラスソースには、細かく刻んだ玉ねぎとマッシュルームが加えられています。使用する牛肉は現代人の好みに合わせて薄切り肉から厚切り肉へとアレンジされており、お肉のボリュームを堪能できる一品です。

蒲郡の旅から2年後の昭和33年、小津監督、里見弴、野田さんの3人は湯河原で『彼岸花』の設定を話し合いました。3人の脳裏には竹島一帯の美しい風景が蘇ったことでしょう。『彼岸花』は昭和33年9月7日に公開されました。残念ながら『彼岸花』制作中の小津監督の日記は残されていませんが、野田さんが記した「蓼科日記」の中に、小津監督と常磐館・蒲郡ホテルの交流を示す記述がありました。

昭和33年10月31日(金)
一略一
小津君宅の派出婦小川さん突如来訪。蒲郡常磐館の支配人三浦氏よりの車海老を持参。

常磐館から届いた車海老を、小津家のお手伝いさんが蓼科まで届けてくれたことが記されています。「支配人三浦氏」とあるのは、常磐館と蒲郡ホテルの初代支配人を務めた三村三時さんのことです。明治47年、瀧信四郎から常磐館の支配人に任命された三村さんは、蒲郡ホテルを一流ホテルに育て上げた伝説の支配人でした。総支配人となった後もお客様を出迎える際は必ず第一礼装の紋付袴を着用し、礼を尽くしたといいます。蒲郡に滞在した志賀直哉や、『彼岸花』撮影中の小津監督とも、きっと多くの交流があったことでしょう。車海老は『彼岸花』を鑑賞した三村支配人からの心尽くしだったのかもしれません。

令和4年、蒲郡クラシックホテルの本館を始め敷地内の4つの建物が国の登録有形文化財となり、昭和初期の趣きを残す貴重なホテル建築として注目を集めています。愛知県内の文化財見学イベントとタイアップした見学会には、多くの建築ファンが参加しました。また、従業員の方々を中心に構成される「蒲郡クラシックホテルの歴史を探る会」によって、戦争や経営母体の変更によって失われたホテルの歴史を調査し、次世代へ伝える活動が続けられています。瀧信四郎の夢が詰まったホテルは、竹島と並ぶ蒲郡のシンボルとして多くの人々に愛されています。皆様もぜひ『彼岸花』ロケ地となった美しい風景と、小津監督の旅の思い出を訪ねてみてください。

引用:「小津安二郎人と仕事」 里見弴「はにかみや」より
   「蓼科日記抄」より

文:ごとう ゆうこ

 

 

『彼岸花』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2846/

小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/