連載コラム「OZU活のすすめ」第24回 ~信州編 『浮草物語』『一人息子』のロケ地探訪と小津作品に描かれた蚕糸業~
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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第24回も信州編として、長野県の小津スポットをご紹介します。今回は、美しい山々が印象的な『浮草物語』と『一人息子』のロケ地を訪ねました。また、信州は古くから養蚕や製糸などの蚕糸(さんし)業で栄えた地です。『一人息子』には、登場人物が働く製糸工場や巨大な繭倉庫が登場します。ロケ地とともに『一人息子』に描かれた、信州蚕糸業の隆盛を伝える文化財や郷土博物を訪れました。

まずは『浮草物語』のロケ地を訪ねて、上田市に隣接する小県郡長和町に向かいました。昭和9年に公開された『浮草物語』は、信州の田舎町を舞台に旅役者一座の悲哀と親子の愛情を描いた作品です。後に『浮草』とタイトルを変え、小津監督自らの手で再映画化されました。

『浮草物語』には全編を通して信州の美しい風景が登場します。旅役者の一座が興行を打つ田舎町は、中山道の宿場町「和田宿」で撮影されました。座長の喜八はこの町で暮らす息子に会えるのを楽しみにしています。浮草家業の父親では肩身が狭かろうと、息子には父とは名乗らず伯父のふりをしています。

和田宿は江戸から28番目の宿場町です。29番目の下諏訪宿との間には中山道最大の難所といわれた和田峠があり、和田宿は過酷な峠越えを控えた多くの旅人で賑わいました。峠へ続く緩やかな登り坂に沿って、往時の賑わいを伝える本陣や旅籠跡が軒を連ねます。

宿場町の正面に聳えるのは標高1,594mの大出山(おおいでやま)です。裾の広い雄大な稜線と、猫の耳を思わせる2つのピーク「双耳峰」が特徴的です。小津監督は『浮草物語』のために埼玉県、群馬県、長野県、山梨県、静岡県と5県にも及ぶロケハンを行いました。中山道の宿場町、山間の温泉地、険しい道に旅人が難儀した峠など、ロケハンの行程を記した日記を見ると、小津監督自身が旅役者の巡業を追体験しているようにすら思えます。だからこそ『浮草物語』に登場する風景は、美しくもどこか哀しく私達の心を震わせるのかもしれません。

続いては『一人息子』のロケ地を訪ねて、上田市の南西に広がる塩田平へ向かいました。昭和11年に公開された『一人息子』は、小津監督初のトーキー作品です。物語の舞台は大正12年の信州。夫に先立たれたおつねは、女手一つで小学生の息子・良助を育てています。成績が良い良助は中学校への進学を希望しますが、おつねはこれを分不相応な望みだと叱りつけます。担任の大久保先生は「これからは学問が必要な世の中になる」と、良助に進学を勧めます。向学心に燃える大久保先生は学校を退職して東京へ旅立ち、おつねは自分の力で良助を中学校へ進学させようと決意します。

四方を山に囲まれた塩田平には美しい田園風景が広がります。北条義政を祖とする塩田北条氏がこの地を治めたことから、北条氏ゆかりの寺社が多く残り、歴史情緒溢れる観光地として親しまれています。塩田平の南端には荒々しい岩峰を連ねる独鈷山(とっこさん)が聳えています。流域の村々を潤して千曲川へと注ぐ産川(さんがわ)の源流があることから、雨乞いの山として人々の信仰を集めてきました。

独鈷山の麓には良助が通う小学校があります。山懐に抱かれるような木造校舎とポプラ並木に、座繰器械のはずみ車がカタカタ回る音が重なります。

撮影に使われたのは旧西塩田小学校の木造校舎です。昭和初期に建てられたという校舎を訪ねると、歴史を重ねた門柱と創立百周年の記念碑が迎えてくれました。西塩田小学校は平成8年に廃校となりましたが、現在も当時と変わらぬ姿で独鈷山の麓に佇んでいます。

おつねは古い製糸工場で繰糸(そうし)の仕事をしています。工場に並んでいるのは、家庭用や家内工業用として広く使われた「足踏式座繰(ざくり)器械」と呼ばれる繰糸機です。足踏みではずみ車を回転させ、座繰器械に取り付けられた小枠(こわく)に生糸が巻きつく仕組みになっています。
生糸は、蚕が吐き出した繭糸を何本も撚り合わせて作られます。繭から引き出した繭糸を一束にまとめて小枠に巻き取りますが、必要な繭数を保ち続けなければ均一な太さにはなりません。そこで、新たな繭を補充して繭糸を継ぎ足す接緒(せっちょ)を行います。稲わらの穂先を束ねて作った索緒箒(さくちょほうき)で繭の糸口を引き出し、糸が途切れない内に繭糸同志を素早く継ぎ合わせます。常に繭の状態を観察しながら作業を行う繰糸は、大変な集中力を要する仕事でした。

足踏式座繰器械が展示されていると聞き、上田市立丸子郷土博物館を訪れました。小県郡丸子町(現上田市)は、小規模な工場で構成された「結社」を中心に発展した製糸の町です。明治23年に設立された製糸結社「依田社」は、各工場が生産した糸を1ヶ所に集めて出荷や共同販売を行うことで、資本が少ない工場でも経営が安定する仕組みを整えました。また、揚返(あげかえし)という作業を共同で行う工場を開設したり、製品検査を共同で実施するなど、作業の効率化と品質の向上を図る工夫が行われました。大正時代に入るとアメリカへの生糸輸出を積極的に進め、依田社の名は国内だけでなくアメリカにも広まっていきます。

丸子郷土博物館には依田社の歴史を紹介する資料と共に、製糸にまつわる道具類が展示されています。その中におつねが劇中で使っていた2条繰りの足踏式座繰器械がありました。座繰器械の正面には大きな鉄鍋が据えられています。蚕は糸のまわりにセリシンという接着成分をコーティングしながら繭を作ります。セリシンを溶かして繭糸の解れを良くするため、この鉄鍋で繭を煮ながら繰糸を行います。
ところで、大正時代には2条繰りの繰糸機を使う製糸工場は殆どなかったそうです。アメリカへの輸出が増加したことから、既に明治29年に3条繰、明治30年代には4条繰の繰糸機が開発されて生産増加が図られました。小津監督は昔の雰囲気を出すためにわざと撮影に足踏式座繰器械を使ったのかもしれませんね。
時は流れて昭和10年。良助を東京の大学にまで進学させたおつねは、学費を工面するために夫が遺した家や桑畑を手放し、製糸工場の雑役婦として住み込みで働いています。おつねは今や自分の家がないことを良助には告げていません。息子の出世を信じ、家のことは心配せず一生懸命勉強してほしいというおつねの親心です。厳しい自然の中で暮らした信州の人々は忍耐深い気質であるといいます。息子のために一心に働くおつねも、そんな信州の女性であることが窺えます。
工場では生糸を巻く小枠が7つも付いた7条繰りの繰糸機を前に、大勢の工員が忙しそうに手を動かしています。おつねがかつて操った足踏式座繰器械の何倍もの生産力です。年齢を重ねて眼鏡をかけたおつねには、もう細かい作業を要する繰糸はできないのでしょう。
良助から就職が決まったと報せを受けたおつねは昭和11年の春に上京し、久方の再会を喜び合います。しかし、良助は収入の不安定な夜学の教師となっていました。おつねに内緒で結婚して子供が生まれ、東京の外れで親子3人つつましく暮らしています。良助は、人の多い東京では出世できないのは仕様がないんだと言います。息子の出世を信じて働き続けたおつねは、将来を諦めたような良助の言葉に失望します。

信州に帰ったおつねは再び製糸工場で働きます。工場の掃除を終えて外へ出たおつねは、繭倉庫の縁に腰掛けてぼんやりと物思いに耽ります。画面には漆喰塗りの巨大な繭倉庫が2棟並んでいる風景が写ります。
明治18年に現長野県岡谷市で繭を火災や湿気から守る専用倉庫が建設され、それ以降諏訪式の繭倉庫が各地で建設されるようになりました。昭和初年には岡谷市だけで105もの繭倉庫があったといいます。昭和5年以降、世界恐慌の煽りを受けて多くの工場が倒産に追い込まれ、製糸業の衰退と共に繭倉庫も姿を消していきました。

現在も貴重な繭倉庫が残る、旧常田館製糸場を訪れました。笠原工業株式会社は、明治11年に岡谷市で製糸業を始め、明治33年に上田市に進出して常田館製糸場を創業しました。製糸事業は昭和59年に終了しましたが、敷地内には木造5階建の繭倉庫を始め、常田館製糸場時代の建物15棟が現存しています。貯蔵施設、製造施設、事務所、炊事場と多様な建物が残っている製糸工場は極めて少なく、平成24年には7棟が貴重な産業遺産として国の重要文化財に指定されました。

旧常田館製糸場には明治から大正時代にかけて建てられた主要な4棟の繭倉庫があります。国内に唯一残る5階建ての繭倉庫はその大きさに圧倒されますよ。建設当初は多くの窓が連なる「多窓式」の倉庫で、窓を開けて風を通すことで繭を自然乾燥させました。その後はあらかじめ乾燥させた繭を貯蔵するようになり、殆どの窓は塗り固められて採光用の小窓のみが残されています。
学芸員の小駒さんにお話を伺いました。常田館製糸場は、最盛期には1,500人もの従業員が働いていたそうです。繰糸を担当する女子工員だけでなく、煮繭(しゃけん)の湯を沸かすボイラー棟や、生糸の梱包や出荷を担う部署では、多くの男性工員が働いていました。女子工員が生活した寄宿舎では世話係の寮母を始め、炊事や掃除などを担う人手も必要だったことでしょう。「大規模な工場では、おつねのように年齢を重ねた女性の就労も少数ながら実在したようです」と仰っていたのが印象的でした。

おつねが物思いに耽る繭倉庫の周囲には、細長い籠が無造作に置かれています。これは繭の輸送に使われた竹製の籠です。長野県は養蚕が盛んな地域でしたが、生糸の生産が増加するにつれ、他県からも繭を仕入れるようになります。東北地方から中国地方まで、全国各地の産地から仲買人が仕入れた繭が長野県へと汽車輸送されました。

丸子郷土博物館に展示されている「輸送用繭かご」籠です。中心が空洞になっている繭は潰れやすいため、麻袋に詰めた繭を繭かごに入れて保護します。更に繭かごの中央には気抜籠(きぬきかご)と呼ばれる細長い竹籠を挿し、繭が湿気を帯びるのを防ぎました。
おつねが信州に帰った後、良助はもう一度勉強して中学教師の検定を受けようと決意します。良助の決意は実現するのか、またしても人がひしめく東京で貧しい生活に埋もれてしまうのかは観客の想像に委ねられます。
昭和12年7月に日中戦争が勃発します。『一人息子』の公開から一年後の昭和12年9月、小津監督は徴兵されて戦地へ赴くことになります。大恐慌で製糸業が衰退しつつあった信州では軍需産業の誘致が行われ、やがて町には軍需工場が立ち並び、桑畑は潰されて麦や甘藷が栽培されるようになっていきます。
おつねと良助の将来にも過酷な運命が待ち受けているのかもしれません。『一人息子』は、東京へと続く空を見上げるおつねの希望を遮るように、閂(かんぬき)が掛かった工場の裏門が映し出されて終わります。まるでこれから訪れる閉塞的な時代を予測しているかのようなラストシーンです。
信州編でロケ地を訪れた『浮草物語』、『一人息子』、『父ありき』には、共通して親子の愛情が描かれています。特に『一人息子』と『父ありき』では、家や畑を売り払い、懸命に働いて息子を進学させる親の姿が印象的です。小津監督の身近にモデルとなった人物がいたのでしょうか。
小津監督は宮前村で代用教員を務めた際、下宿で中学進学を目指す生徒達に勉強を教えました。山間の村では小学校を卒業しただけで働きに出る生徒も少なくありませんでした。良助に中学進学を勧め、向学心に燃えて東京へ旅立った『一人息子』の大久保先生は、代用教員を1年で辞めて東京へ転居した小津監督の姿と重なって見えます。時代によって様々な家族の形を描いた小津監督。公開から90年以上を経た今も色褪せぬ魅力を再確認した信州の旅でした。
文:ごとう ゆうこ
『浮草物語』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2902/
『一人息子』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2886/
小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/













