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連載コラム「OZU活のすすめ」第25回 ~築地編 『長屋紳士録』『彼岸花』のロケ地巡りと小津安二郎の思い出を辿る街歩き~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第25回は「中央区築地」をご紹介します。築地の歴史は明暦3年(1657年)、浅草横山町にあった京都・西本願寺の別院(現築地本願寺)が、明暦の大火で焼失したことに始まります。再建地として江戸幕府から与えられたのは木挽町沖に広がる海上でした。そこで佃島に住む本願寺の門徒が中心となり、海を埋め立て再建の地を築いたことが「築地」という地名の由来となりました。

小津監督にとって築地はゆかりの深い土地です。深川で暮らした頃の日記には、日本橋や銀座の帰りに築地をぶらぶら散歩した様子などが記されています。馴染みの料理店や旅館があったことから、深川を離れた後も築地にはよく訪れました。小津監督は身近な地である築地を映画にも登場させています。今回は『長屋紳士録』と『彼岸花』のロケ地を訪ねるとともに、時代と共に姿を変えてきた築地の歴史を辿ります。小津監督お気に入りの築地グルメも堪能しますよ。

まずは『長屋紳士録』のロケ地を訪ねて、中央区明石町にやって来ました。第二次世界大戦中の昭和18年、小津監督は軍報道部映画班員として南方に派遣され、昭和21年2月に帰国しました。昭和22年に公開された『長屋紳士録』は、小津監督の戦後復帰作となった作品です。舞台は戦後間もない東京。焼け跡に建つ長屋には、荒物屋を営むおたね、八卦見の田代、錺(かざり)職人の為吉、染物屋を営む喜八とその家族が暮らしています。ある日、商売で九段に出かけた田代が父親とはぐれた少年・幸平を連れ帰ります。しかし長屋の住人達は誰も面倒を見ようとしません。仕方なく家に泊めてやるおたねですが、やがて幸平に対して母親のような愛情が芽生え始めます。

おたねが暮らす長屋周辺の風景は、築地に隣接する中央区明石町を中心に撮影されています。長屋の近くを流れるのは「築地川」の南支川です。海を埋め立て土地を築く際、舟運のために埋め残された掘割が築地川となりました。築地を一周するように作られた築地川は、本流、東支川、南支川に分かれ、明石町から築地方面に南支川が流れていました。築地川は昭和46年に埋められ、映画に登場する暁橋は昭和60年に撤去されました。現在は築地川の川筋が「築地川公園」として整備され、公園の入口に旧暁橋の銘板が設置されています。

『長屋紳士録』に登場する築地川南支川と暁橋です。金属回収令により供出されてしまったのか、暁橋には欄干がありません。橋の上に立つおたねの背後には、銅板葺きのドーム屋根を戴いた「築地本願寺」が聳えています。

写真提供:築地本願寺

延宝7年(1679年)、築地の地に再建された築地本願寺は「築地御堂」の名で親しまれ、浮世絵にも描かれる江戸の名所となりました。しかし大正12年、関東大震災の折に発生した火災によって再び焼失してしまいます。震災から11年後の昭和9年、耐震・耐火性に優れた鉄筋コンクリート製の本堂が復興されました。建築家の伊東忠太は仏教発祥の地であるインドの古代仏教様式に着想を得て、洋の東西を問わず様々な建築様式を融合させた独創的な本堂を創りあげました。

2階の本堂へ続く大階段の上下には翼を持つ獅子の像が鎮座しています。階段上に設けられた向拝(ごはい)には4本の列柱が並び、堂々とした破風が異国情緒と共に築地本願寺の格式の高さを感じさせます。

本堂前には大きな扉と円柱が整然と並びます。市松模様が美しい大理石の床には、鮮やかなタイルで築地本願寺の寺紋である「菊くずし」が描かれていました。扉の上には寺院には珍しいステンドグラスが嵌め込まれています。優美な曲線の飾り窓と蓮の花をモチーフとしたステンドグラスが見事に調和しています。

浄土真宗の伝統的な建築様式が踏襲された本堂には、御本尊の阿弥陀如来像が安置されています。昭和38年12月16日、この本堂で松竹と日本映画監督協会による小津監督の合同葬儀が行われました。本堂の後方には寺院には珍しいパイプオルガンが設置されています。結婚式や法要で使用される他、毎月最終金曜日(※)にはランチタイムコンサートが開催されます。近隣のオフィスに勤める方も多く訪れ、本堂に響く美しい音色を楽しまれるそうですよ。

向拝の左右に設けられた階段は築地本願寺の見どころの一つ。手摺に象、馬、獅子など伊東忠太がデザインを手がけた動物の彫像が置かれています。何かを語りかけるような表情がなんともユーモラスですね。築地本願寺は誰でも自由にお参りができます。静謐な空間が広がる本堂と併せて、様々な文化が融合した建築の妙を堪能してみては如何でしょうか。

お参りの後はインフォメーションセンター内にある築地本願寺オフィシャルショップを訪れました。お線香やお念珠などの仏事関連商品は勿論、ここでしか入手できない築地本願寺オリジナルの雑貨やグルメなど、幅広いお土産を取り揃えたショップです。

お勧めコーナーには老舗ワイナリーとコラボした「TERAワイン」や、山芋が入った優しい食感のバウムクーヘン「とろりんばうむ」など、美味しそうなお土産が並びます。築地本願寺の本堂や季節の花々を象った「四季の和三盆」は、夏限定のバージョンが販売されていました。紫陽花、向日葵、風鈴など可愛いモチーフを詰め合わせた和三盆は、季節を感じられるお土産として喜ばれそうです。他にも涼しげな扇子や日傘、希少な白檀をベースにしたアロマミストなど、思わず手に取りたくなるギフトが充実しています。旅の記念となるお気に入りに出会えるかもしれませんね。

築地川公園を歩いて再び『長屋紳士録』の舞台となった明石町へ。旧暁橋付近から築地本願寺を振り返ってみましょう。現在は高い建物や公園の樹木の間から本堂のドーム屋根が僅かに望めました。『長屋紳士録』の公開から80年近い時を経て、街の風景が大きく変化していることを実感します。

『長屋紳士録』の劇中で、暁橋の上から子供達が釣り糸を垂らしているのが印象的でした。釣り道具もなく仲間に入れてもらえない幸平は、橋の袂にポツンと座って築地川を見つめています。築地川の対岸にある大きな建物は、明石町にある聖路加(せいるか)国際病院の病棟です。築地3丁目から旧暁橋を通り隅田川に至る「聖ルカ通り」に沿って、聖路加国際病院や聖路加国際大学の校舎が立ち並んでいます。

明治2年、東京が外国貿易のための市場を開いた(開市場)ことにより、明治政府は明石町一帯の10ヘクタールを外国人居住区域と設定しました。築地居留地には宣教師や医師などの知識人が暮らし、教会やミッションスクールが多く作られました。

明治34年、アメリカの宣教医師ルドルフ・B・トイスラーは、築地居留地に小さな診療所「聖路加病院」を開設しました。聖路加の名は新約聖書に登場する聖人「聖ルカ」に由来します。貧しい人に無料で「施療」を行い、当時は珍しかった専門医が診察を行う聖路加病院の医療は評判を呼び、日本人の患者も大勢訪れるようになりました。

大正6年には「聖路加国際病院」と改称され、日本初の高等看護教育を行う高等看護学校を設立しました。しかし、大正12年の関東大震災に伴う火災で病院と校舎は焼失してしまいます。昭和8年、着工から5年の歳月をかけて地上6階地下1階の最新設備を備えた新病院が再建されました。病棟中央には6階吹抜けのチャペル「聖ルカ礼拝堂」が造られ、患者や職員達の祈りの場となりました。しかし、太平洋戦争を前に日米関係が悪化するとアメリカ人医師は解雇され、昭和18年には聖ルカの名を冠した病院名が「大東亜中央病院」と改称させられます。戦後はGHQに接収され、長らく仮病院での医療活動を余儀なくされました。ようやく全ての接収が解除されたのは昭和31年のことでした。昭和33年、小津監督は平穏が戻った聖路加国際病院を再び映画に登場させます。

昭和33年公開の『彼岸花』は小津監督初のカラー作品。娘の結婚問題に揺れる父親の姿がユーモラスに描かれました。主人公の平山は、京都の旅館「ささき」を定宿にしています。女将の佐々木初は、人間ドックを受けるために京都から上京して聖路加国際病院に入院します。年頃になった娘に良い結婚相手を見つけよう等躍起になっている初。実はこの入院も病院に勤務する医師と娘の幸子をこっそりお見合いさせようと考えてのことです。

初に付き添って上京した幸子は、聖路加国際病院のそばにある旅館に滞在しています。旅館の竹垣越しに十字架を戴いた聖路加国際病院の塔屋が登場します。アール・デコ様式の塔屋の周囲には鮮やかなモザイクタイルの装飾が施され、青空との対比が大変美しいカットです。

旧館の北側を通る居留地通りには、「カトリック築地教会」や「築地外国人居留地跡の碑」など、居留地時代の面影を伝える建物や記念碑が点在します。竹垣越しの塔屋は、居留地通りの方角から撮影されています。平成9年、聖路加国際病院は隣接する土地に移転しましたが、正面玄関とチャペルを有する旧館の中央部分は修復工事を行い、保存されることとなりました。旧館の中庭には、昭和8年に建聖路加国際病院の宣教師館として建てられた「トイスラー記念館」が移築され、開設当時からの歴史が大切に受け継がれています。

次は小津監督お気に入りの築地グルメをご紹介しましょう。勝鬨橋の袂にあるふぐの名店「天竹」を訪れました。大きなふぐが描かれた看板が迎えてくれますよ。食通だった小津監督はお気に入りの飲食店などを小さな手帳に書き留めていました。通称『グルメ手帖』と呼ばれる2冊の手帳の中に「天竹 ふぐ料理」の記載があります。

写真提供:天竹

天竹の創業は明治時代。初代・濱田竹松が三重県から上京し、深川の門前仲町に天ぷらの店「天竹」を開業したことに始まります。ふぐ料理を始めた2代目当主はふぐの本場関西で修行を積み、料理の腕を磨きました。勝鬨橋の袂に移転したのは昭和23年。以来築地で70年以上の歴史を誇る老舗のふぐ料理店です。

メニューには美味しそうなふぐ料理がズラリと並びます。今回は色々なふぐ料理を楽しめる「勝どきコース」をお願いました。美しく盛り付けられたトラふぐの刺身にほっくりと揚がったふぐの唐揚げ。お料理を堪能しながらふぐちりを仕立ててゆきます。鍋が沸いたら最初にふぐのアラを入れ、ゆっくりと具材に火を通します。出汁に溶け出したアラの旨みが野菜や豆腐にも染み渡りますよ。煮込んだふぐをポン酢に潜らせていただくと、ふっくらとした上品な口当たりと共に濃厚な味わいが広がります。ふぐちりの最後は出汁にご飯と溶き卵を入れてふぐ雑炊を楽しみました。調理法によって様々な味わいを引き出す職人の技とふぐ料理の奥深さを堪能することができました。

小津組のカメラマンだった厚田雄春さんは、天竹にまつわる小津監督の思い出を語っています。昭和38年の春、首の腫れ物に違和感を覚えた小津監督は病院を受診し、築地の国立がんセンターに入院して手術を受けることになります。厚田さんは手術後の輸血のために撮影所の若手スタッフを集めてがんセンターを訪れました。小津監督は皆を気遣い、「みんなに飲ましてやってくれよ」と厚田さんにお金を渡してくれたそうです。厚田さん達は勝鬨橋の袂にある天竹を訪れ、小津監督から頂いたお金でありがたく飲んで食べてどんちゃか騒ぎをしたそうです。小津監督を慕う厚田さんと、どんな時もスタッフを気遣った小津監督の優しさが伝わるエピソードです。

一年を通して美味しいふぐ料理を供する天竹ですが、ふぐの旬はやはり冬。12月頃になると冷たい海水でふぐの身が引き締まり、脂が乗って更に美味しくなるそうです。毎年忘年会シーズンには旬の味覚を楽しみにしている大勢のお客で賑わいます。賑やかに鍋を囲むのが好きだった小津監督も、寒い時期に熱々のふぐちりを楽しんだのかもしれませんね。

築地は小津監督の生涯を通して思い出が多い土地です。戦後の復帰作となった『長屋紳士録』は、戦前の「喜八もの」に通じる長屋を舞台に、戦争によって疲弊した人々が優しい心を取り戻す様子が描かれました。昭和2 5年公開の『宗方姉妹』と昭和33年公開の『彼岸花』には、登場人物が築地の旅館を定宿としている描写があります。日頃からよく築地を訪れていた小津監督の生活が反映された設定といえます。近代的なビルが立ち並ぶ中にも江戸時代からの歴史を感じられる築地の街。ロケ地巡りとともに町の歴史や小津監督の思い出に思いを馳せる街歩きはいかがでしょうか。

文:ごとう ゆうこ

※築地本願寺ランチタイムコンサートの開催日は、行事等により変更となる場合がございます。最新の情報は、築地本願寺公式ホームページをご確認ください。

 

 

『長屋紳士録』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2869/

『彼岸花』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2846/

小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/