連載コラム「OZU活のすすめ」第26回~日本橋編 小津安二郎が愛した老舗と伊勢商人の歴史を辿る街歩き~
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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第26回は日本橋をご紹介します。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命で関東へ移封された徳川家康は、江戸城に物資を運ぶ水路「道三堀」を開削し、堀の北側に町人地として「本町」を造成しました。浮世絵にも描かれた「日本橋」が架橋されたのは、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603年)のこと。翌年には、日本橋が江戸と日本各地を結ぶ五街道の起点と定められました。街道を通じて様々な特産品が集まる日本橋周辺には問屋街や市場が形成され、いつしか本町を中心とする町人地が「日本橋」と呼ばれるようになりました。多くの伊勢商人が活躍した日本橋は、小津監督の父・寅之助さんが支配人を務めた「湯浅屋」とも深いゆかりがある街です。今回は日本橋の歴史を辿ると共に、小津監督が愛した老舗の名店をご紹介します。

写真提供:株式会社三越伊勢丹
日本橋を渡ると左手に「日本橋三越本店」が見えてきます。三越は延宝元年(1673年)創業の「三井越後屋呉服店」(越後屋)を前身とする、日本初の百貨店です。入口には「丸に越」の店章が染め抜かれた大きな暖簾が掛かっています。
明治37年、株式会社三越呉服店は「デパートメントストア宣言」を行い、アメリカの百貨店を目指した新しい経営方針を打ち出しました。大正3年にはルネサンス様式の外観を持つ鉄筋5階建の新店舗(現本館)が落成します。欧米の商業施設を視察して建設された館内には、日本初のエスカレーター、エレベーター、全館暖房など最新鋭の設備が導入されました。三越の誕生により、日本橋は華やかな流行の発信地となっていきます。

大正12年、関東大震災に伴う火災により館内が全焼するという被害を受けますが、昭和2年に被害を免れた建物の躯体を生かして鉄筋コンクリート製7階建へと再建されました。昭和10年に行われた増築工事では、アール・デコ様式の装飾に彩られた5層吹き抜けの中央ホールが新設されます。各時代の美しい意匠と最新技術を採用しながら増改築を重ねた本館は、日本の百貨店の発展を象徴する貴重な建築として、国の重要文化財に指定されています。

美しいレリーフや装飾に彩られた本館正面玄関の上部には「三越」の金文字が輝いています。入口の左右に鎮座する2頭のライオン像は、大正3年の新店舗落成時に設置されたもの。ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像をモデルに作られました。昭和16年には金属供出令により軍に供出されますが、戦後になって奇跡的に溶解を免れた状態で発見されたという強運の持ち主です。三越の歴史を見つめ続けたライオン像は、待ち合せ場所としても親しまれています。
深川で暮らした頃の小津監督の日記には、家族や親しい映画人たちと三越を訪れたことが記されています。
昭和8年12月1日(金)
▲母と三越に火鉢を買いに行く約束だつたけれど
雨やまず憂(鬱)陶しく やめて 昼寝をする
昭和9年2月4日(日)
信三と三越に行き オパール ブロビラなど買ふ
雪どけの倉の前で久振にライカをうつす
夜 引伸しなどする
カメラに凝っていた小津監督は、写真の印画紙や現像液を購入しています。火鉢から写真用品まで、三越の幅広い品揃えが伝わってきますね。この他にも小津監督の日記には、昭和12年に『淑女は何を忘れたか』の撮影に使うポスターを借りに行ったことや、昭和28年に『東京物語』のロケハンで屋上に上ったことが記され、三越をよく訪れていた様子が伝わってきます。

写真提供:株式会社三越伊勢丹
本館6階には、昭和2年に開設された三越劇場(旧三越ホール)があります。関東大震災で多くの劇場が被害を受けたことから、三越は文化的な復興を願い、震災後の再建時に「三越ホール」の名称で劇場を新設しました。514席を有する三越ホールは、世界で初めて百貨店内に作られた劇場でした。2層吹き抜けの天井には美しいステンドグラスが嵌め込まれ、舞台の周囲や壁面にはロココ調を基調とした壮麗な装飾が施されています。
昭和9年1月12日、三越ホールで小津監督の演出による『春は朗らかに』という舞台が上演されました。日記には演出料が20円であったことが記されています。残念ながら詳しい資料は残っていませんが、一体どんなお芝居だったのでしょうか。関東大震災の復興を願って誕生した三越ホールは、太平洋戦争後に「三越劇場」と名称を変更し、再び文化復興の役割を担いました。令和9年に開設100年を迎える三越劇場では、現在も様々な分野の公演が行われています。
三越の前身である三井越後屋呉服店は、松阪出身の伊勢商人・三井高利によって創業されました。元和8年(1622年)に松阪の商家に生まれた高利は、14歳で江戸へ出て、長兄の俊次が経営する呉服店で商いを仕込まれます。しかし、高利の類い稀な商才を恐れた俊次は、松阪で暮らす母の世話を口実に高利を帰郷させてしまいます。高利は松阪で金融業を営み成功を収めますが、江戸で呉服店を開く夢を抱き続けます。延宝元年(1673年)、日本橋の本町一丁目に念願の呉服店を創業したのは、高利が52歳の時でした。
大店が軒を連ねる本町で顧客を獲得するために、高利は様々な新商法を考え出します。その代表的な商法が「店前現銀掛値無し」です。「掛け値」とは、価格交渉や掛け売りの金利を見込んで、実際よりも高く設定された価格のこと。更に年2回の節季払いを廃止し、商品と引き換えの「現銀(金)払い」を推奨しました。売上をすぐ現金化することで店の経営が安定し、商いの効率化にも繋がりました。誰でも公平な「定価」で買物できる高利の発案は人々の心を掴み、三井越後屋呉服店は江戸で評判の繁盛店となっていきます。

三井高利の他にも、日本橋では多くの伊勢商人が活躍しました。承応2年(1653年)、日本橋大伝馬町で創業した「小津和紙」は、創業の地で370年の歴史を重ねる老舗の紙商です。入口には「ウロコキュウ」の家印を染め抜いた風格ある暖簾が掛かっています。
創業者の齋藤清左衛門長弘は、大伝馬町の紙問屋で修行を積んだ後、独立して「小津屋清左衛門」(現小津和紙)を創業しました。創業の際に小津三郎右衛門道休(どうきゅう)という伊勢商人の資金援助を受けたことから、小津屋の屋号と小津姓を名乗るようになります。ウロコキュウの家印もこの時道休から受け継がれました。

小津和紙の店先にある「小津の起源」の碑には、明治時代に撮影された小津屋清左衛門の写真が嵌め込まれています。重厚な蔵造りの店構えに長い歴史を感じますね。
小津屋清左衛門に長年奉公して支配人に出世したのが、小津監督が生まれた「小津新七家」の本家「小津与右衛門家」の初代当主・中西新兵衛でした。支配人を勤め上げた新兵衛は、清左衛門家から支給された仕分金(退職金)を元手に、肥料問屋「湯浅屋」の共同経営者となります。
湯浅屋は宝永5年(1708年)頃に江戸の北新堀で創業した肥料問屋です。当時は肥料だけでなく、顧客の注文に応じて様々な品を扱っていました。創業者の岩崎嘉右衛門は、紙の仕入れに訪れた小津屋清左衛門で支配人の新兵衛と知り合います。共同経営の話を持ち掛けたのは、新兵衛の実直な仕事振りと人柄に惹かれたからではないでしょうか。小津与右衛門家と湯浅屋の歴史は、日本橋から始まったといえるかもしれませんね。

小津和紙の3階にある「小津史料館」には、小津和紙が扱った様々な紙製品とともに、小津清左衛門家の歴史を伝える帳簿や道具類が展示されています。
新兵衛が小津屋清左衛門で働いたのは、5代当主・清左衛門長康(ながやす)の時代です。当時の帳簿には「正徳六年(1716年)正月 新兵衛 五百両」と、新兵衛に支給された仕分金の書き付けが残されています。清左衛門家の慣わしで、支配人には仕分金とともに退職後の住居が支給され、別家として小津姓を名乗ることが許されました。

小津史料館に小津監督の紹介コーナーがありました。清左衛門家にとって小津監督の家は、別家(小津与右衛門家)の分家(小津新七家)にあたります。血縁関係はありませんが、歴史を辿ることで「小津姓」を持つ伊勢商人の繋がりを知ることができます。

小津和紙の1階は、全国から取り寄せた手漉き和紙を始め、様々な紙製品を扱う店舗となっています。文化財の修復に用いる典具帖紙や、和紙糸で編まれた靴下など、和紙の幅広い用途に驚かされます。可愛いポチ袋や折り紙など、お土産に喜ばれそうな品も沢山並んでいますよ。

伝統的な着物の柄を印刷した「友禅紙」は、ラッピングや小物作りなど様々な楽しみ方ができる人気商品。海外へのお土産としても好評だそうです。色鮮やかな柄の中に、松阪木綿柄の友禅紙を見つけました。藍染めの糸で織り上げる多様な縞柄が松阪木綿の特徴です。伊勢商人の角屋七郎兵衛が安南(現ベトナム)から持ち帰った柳条布(りゅうじょうふ)がルーツとされ、どこかエキゾチックで粋な縞柄がお洒落に敏感な江戸の人々を魅了しました。松阪木綿柄の御朱印帳やしおりなどが並ぶコーナーもあり、小津和紙と松阪とのゆかりを感じさせます。
小津和紙では日本の和紙文化を広く伝える活動も行われています。手漉き和紙体験工房では伝統的な紙漉きを気軽に体験できる他、和紙を使った美術作品の展覧会や、書道や水墨画などの文化教室も開催されています。夏休みに開かれる小中学生向けのワークショップは、毎年多くの親子連れで賑わいます。
関東に移封された徳川家康は大阪の佃村から漁師を移住させ、江戸湾で獲れた魚を城に献上させました。やがて漁師達は余った魚を販売するようになり、日本橋のたもとに問屋や仲買人が集まる魚河岸(魚市場)が形成されました。関東大震災の被害を受けて築地へ移転するまで、日本橋は江戸の台所として活況を呈しました。今回は小津監督がお気に入りの飲食店を書き留めた2冊の手帳・通称「グルメ手帖」から、日本橋の魚河岸で誕生した名店をご紹介します。

魚河岸の周辺には海苔、鰹節、蒲鉾など様々な海産物を扱う店が軒を連ねました。元禄元年(1688年)創業の「神茂」(かんも)は、日本橋魚河岸の味を守り続ける老舗の練り物店です。

江戸時代中期になると、長崎港から清(現中国)へ向けて「俵物」と呼ばれる海産物が輸出されます。中でも高級食材として珍重された「俵物三品」(ふかひれ、干しあわび、干し海鼠)は、幕府の重要な財源となっていました。品川沖や浦和沖には幕府直轄の漁場「鮫場」があり、ひれを取った後の鮫が魚河岸に多く流通しました。
この鮫の身を活用しようと日本橋で誕生したのが「はんぺん」です。神茂は現在も鮫の身を原料としたはんぺんを作り続けています。柔らかいヨシキリ鮫を6割、旨みが強く身がしっかりとした青鮫を4割の割合で使用するのが神茂の伝統。鮫の身を卵白や山芋と共に練り上げ、昔ながらの木枠を使って一つ一つ型取ります。この時すり身の表面を狭匙(せっかい)という木べらで叩いて空気を含ませることで、ふっくらと膨らんだ山型のはんぺんが出来上がります。

旨みが濃厚な神茂のはんぺんは、そのままわさび醤油につけたり、さっと炙って薬味と共にいただくのがお勧めです。ふんわり柔らかい口当たりと、舌の上で蕩けるような軽やかさに驚かれるのではないでしょうか。
小津監督とコンビを組んだ脚本家・野田高梧さんが記した「蓼科日記」の中に、神茂のはんぺんが登場する記述がありました。
昭和38年4月17日(水)
-略-
ユリ子より電話あり、一昨日小津君の見舞に行き、カンモのハンペンなど持って行ったという。元気だった由なるも何しろ大へんな客だったという。
小津監督が築地の国立がんセンターで手術を受けた日の日記です。「ユリ子」とは、野田さんの妻・静さんの妹である小林百合さんのこと。蓼科の雲呼荘にもよく訪れた百合さんは、小津監督と家族ぐるみの交流がありました。手術の成功を祈って小津監督の好物を持参した百合さんの優しさが伝わってきます。
独特の弾力と旨みを持つ鮫のはんぺんは江戸時代から高級品とされ、贈答品に使われたそうです。最初は丸型だったはんぺんが箱に詰めやすいように四角い型になったとか。暑さで食欲がない時もさっぱりいただけるはんぺんは、夏の贈りものとしても喜ばれそうですね。

最後に、日本で一番長い歴史を持つ折詰め弁当の店「日本橋弁松総本店」を訪れました。弁松の歴史は文化7年(1810年)、越後出身の初代当主・樋口与一が日本橋の魚河岸に食事処「樋口屋」を創業したことに始まります。大盛りの食事を供する樋口屋は評判となり、店は大変繁盛しました。しかし鮮魚を扱う魚河岸の仕事は時間との戦い。食事の途中で箸を置き、仕事に戻らねばならないお客も多かったそうです。そこで残った料理を経木や竹の皮に包んで持たせると大変喜ばれ、竹皮で包んだ弁当を販売するようになりました。三代目当主・松次郎の時代には弁当の販売がメインとなり、「弁当屋の松次郎」を略して「弁松」と呼ばれるようになります。松次郎が食事処を店じまいし、本格的な折箱料理専門店「弁松」を創業したのは、嘉永3年(1850年)のことでした。

小津監督はグルメ手帖の弁松の項に「たこの桜煮」と書いています。今回はたこの桜煮が入ったお弁当の中から「並八丸」をお願いしました。経木の折箱に弁松自慢のお惣菜が美しく詰め込まれています。弁松のお弁当は創業から受け継がれた「濃ゆい味」が特徴です。職人さん手焼きの玉子焼、野菜の甘煮(うまに)、脂が乗ったかじきまぐろの照焼など、甘辛い味の中にしっかりと素材の美味しさが活かされています。江戸の人々に愛された濃ゆい味でご飯がどんどん進みますよ。

小津監督のお気に入り「たこの桜煮」は、じっくり煮込んだたこに吉野葛を使ったあんを絡めて作ります。桜色に色付いたたこは一口噛むとホロリとほどける柔らかさ。甘さと共にたこの旨みが口の中に広がります。滑らかなあんの舌触りとたこの食感も楽しめる、弁松ならではの逸品です。

日本橋の本店は、親しみやすい町のお弁当屋さんといった雰囲気。女将さんを始めお店の方々が温かく迎えてくれますよ。店頭にはお弁当と共に弁松自慢のお惣菜も並びます。玉子焼の切落しや少し煮崩れた甘煮などがお得な価格で販売されています。少量ずつ詰められたお惣菜は近隣のオフィスに勤める方々に好評で、お昼時になると多くのお客で賑わいます。たこの桜煮が入ったお弁当は3営業日前までの予約が必要です。ぜひご予約の上、小津監督が愛した江戸の味を堪能してみてください。
小津監督が残した日記とグルメ手帖を元に日本橋の老舗を訪ねた街歩き。江戸からの歴史を繋ぐ人の手の温もりと、伊勢商人の活躍や小津与衛門家の歴史にも触れることができました。時代の変化に寄り添いながら日々研鑽を重ねる老舗のあり方は、小津監督の映画作りにも通じるような気がします。「グルメ手帖」には、他にも鰻屋や菓子店など日本橋の名店が書かれています。小津監督が愛したお店を巡りながら、日本橋の歴史を辿る街歩きはいかがでしょうか。
文:ごとう ゆうこ
小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/













