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連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(14)」
飯が食えればどこへでも。だが、ひとところに長続きしない。

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『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』は「香港映画界のクロサワ」と紹介されることの多いキン・フー監督の代表作。1967年の公開時にはアジア各国で興行収入の記録を塗り替えた大ヒット作でもある。翌年、日本では地域限定で上映され、6年後にリバイバル公開された。このとき『残酷ドラゴン』という邦題(原題は『龍門客棧』)がつけられたわけだが、70年代前半がブルース・リーの『燃えよドラゴン』を発火点とする空前のカンフー映画ブームにあった(懐かしい!)ことを考えると、この命名は分かる気もする。

 しかし、本家はこちら。この映画を導火線に香港では武侠映画やカンフー映画のムーブメントが到来したのだ。あのブルース・リーもキン・フー監督と一緒に仕事することを死ぬまで夢見ていたのだという。

 娯楽活劇としての面白さ、香港映画に与えた影響の大きさから「クロサワ」の冠が被せられたことは容易に想像がつくが、ぼくはこの映画を観て反射的にマカロニウエスタンや『マッドマックス』シリーズを連想した。砂煙る圧倒的な荒野の風景があり、その風景を切り裂くような刺激的で創意に富んだアクションが用意されている点でこれらの映画は共通している。いや、マカロニウエスタンというジャンルを確立した『荒野の用心棒』が黒澤明の『用心棒』の引用であり、『マッドマックス』の監督ジョージ・ミラーが黒澤映画の影響を認めていることを思えば、黒澤作品もキン・フー作品も、そしてマカロニウエスタンも『マッドマックス』シリーズも、同じ地平で語るべきなのかもしれない。

 物語の舞台は15世紀半ばの中国。政治は腐敗し、宦官が秘密警察機関を牛耳っていた明王朝の頃だ。すっかり権力を掌握した宦官によって反対派の官僚は無実の罪で処刑され、その遺族らは辺境へと追放される。しかし報復を恐れる宦官は彼らを葬るために配下の兵士数十人を刺客として放つ。刺客の兵士と遺族を逃そうとする者たちの闘いを描いたのが本作であり、その主たる舞台となるのが荒野にぽつんと建った旅の宿だ。正確には荒野というより、広大な、石だらけの河川敷に立つ宿なのだが、たたずまいはマカロニウエスタンに出てくる寂れた酒場に近い。

 兵士たちが待ち伏せするその宿に現れ、遺族らを逃す側につく白い衣装の旅人に目を奪われる。箸や徳利を利用したワザで剣の達人ぶりを披露するくだりは序盤の見せ場だ。自分のことをおせっかいな風来坊だと認め、「飯が食えればどこへでも。だが、ひとところに長続きしない」と語るあたりは『椿三十郎』の三船敏郎や『荒野の用心棒』のクリント・イーストウッドを思わせる。ただし、シー・チュンが演じるこの流れ者は青白い優男。外見が華奢なこともあり、クールな色気が魅力だ。シー・チュンと彼に味方する剣客兄妹らが中心となって繰り広げる集団アクションが痛快である。キン・フー監督は二階建ての宿の構造を生かし、抜群の空間把握力で活劇を楽しませてくれる。

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 しかし、この映画のアクションの凄みが本当に際立つのは終盤。自ら戦闘の最先端に立つ宦官の首領がおそろしく強く、シー・チュンら剣客が束になってもかなわない。白髪、しかも喘息持ちという人物造形も強烈だ。そして、この難敵と剣客たちとの決戦の場となるのが背後に雲海が広がる山道。荘厳にして静謐な景色は、死を覚悟して闘いに挑む剣客たちの心象風景にも重なって見える。

 劇中には余白の美しさを感じさせる中国の山水画のような構図も織り込まれ、ワイド画面の見せ方を熟知したキン・フーならではの風景力が映画に命を吹き込んでいる。公開から半世紀。21世紀のCGに頼ったこけおどし映画とは一味も二味も違う、アクション映像の品格がここにはある。

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文 米谷紳之介

 

1月28日(土)より渋谷ユーロスペースにて公開!
公式HP  http://www.shochiku.co.jp/kinghu/
ユーロスペースHP  http://www.eurospace.co.jp/schedule/