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連載コラム「銀幕を舞うコトバたち(13)」
もうこれ以上、ぼくを操らんでください。

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 『江戸川乱歩の陰獣』を観ると、今でも小学校の通学路にあった大きな屋敷の塀を思い出す。威圧的なコンクリート塀の上には忍び返しの役目をするガラスの破片が埋め込まれていた。小学生なりにそれが泥棒除けではあるとは理解できたけれど、他人の侵入を拒むという以上の、人間の残酷さや他者への不信感をあからさまに見せつけられたようで、見るたびに胸がざわついた。しかも、その家に住む人たちとは顔見知りであり、やさしそうな印象しかなかったから、たとえようのない違和感だけが残ってしまったらしい。

『江戸川乱歩の陰獣』にはぼくがこのときに見たのと同じような塀が登場し、それが事件を推理する手がかりにもなる。

禍々しい塀の向こうの邸宅に暮らしているのはヒロインの小山田静子(香山美子)だ。彼女のもとに、昔捨てた男で、現在は行方不明中の流行作家・大江春泥から恐ろしい内容の脅迫状が届き、やがて実業家である夫の変死体が発見される。物語の語り手である人気推理作家の寒川光一郎(あおい輝彦)は静子から相談を受けて事件の真相解明に乗り出すのだが、大江春泥とは探偵小説界のライバル同士でもある。

日本に本格派探偵小説を根付かせようとする教養人の寒川光一郎と、猟奇的な怪奇幻想小説で売れた大江春泥。両者を分ける境界線をガラスの破片が埋め込まれた塀とすれば、塀の外にいるのが寒川で、塀の内側、いや塀の上に薄笑いを浮かべて立っているのが春泥といえるだろうか。一見、大江春泥こそが原作者の乱歩その人に思えるが、『回想の江戸川乱歩』(小林信彦著)などを読むと、実際の乱歩はたいへん常識的な人で、塀の外側にいるイメージが強い。つまり、『江戸川乱歩の陰獣』は乱歩のなかの両面が投影された、極めて自己言及の色が濃い作品なのである。ごていねいに『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』『一人二役』『一枚の切符』といった初期の短編のアイデアまで盛り込まれている。

こうしたいかにも乱歩の集大成といった趣きの原作を、監督の加藤泰は粘着質なラブストーリーに仕立て上げた。セット撮影による昭和初期の退廃的な雰囲気と、それを妖しく彩る猟奇犯罪やサディズムや変装趣味。しかし、どれも男女の濃密な恋愛を描くための手の込んだ道具立てにほかならない。加藤泰の代名詞でもある小津安二郎以上に低いローアングルと凝った構図が際立つのも、男と女のツーショットだ。カフェ、レストラン、洋間、日本間、雨の中、蔵の中……と、次々に場所やシチュエーションを変えながら、小山田静子と寒川光一郎が接近していく空間を絶妙な距離感で観客の前に広げてみせる。

寒川が静子に「結局、あなたに操られてしまった。もうこれ以上、ぼくを操らんでください」と吐くセリフは原作小説にはないものだ。加藤泰は恋愛も犯罪と同様に「操る側」と「操られる側」の相克であり、その関係は容易に逆転するのだと言っているようだ。

金田一耕助を持ち出すまでもなく、たいていの名探偵が最初は犯人に操られる側にいる。事件を未然には防げない。最後にトリックや謎を解き明かし、犯人を指摘することでかろうじて面目を保ち、そのカタルシスに観客は酔うことができるのだが、この映画にはカタルシスというものがまるでない。なぜなら、恋愛という名の犯罪の謎解きなど永遠に不可能だからだ。ぼくにはそれが加藤泰のメッセージのように聞こえる。

 なお、劇中に一瞬、小津安二郎の『大学は出たけれど』のポスターが映る。昭和4年、小津が26歳のときの作品だ。乱歩が『陰獣』を発表したのはその前年、34歳のときである。同時代を生きた二人に接点があったのか、ちょっと気になる。

 

文 米谷紳之介

 

 

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