小津安二郎生誕120年連載コラム「わたしのOZU」第11回
「2023年11月の小津作品」―『麥秋』 Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下浅倉奏

2023/11/30

小津安二郎生誕120年を記念した連載コラム「わたしのOZU」。
各界でご活躍されている著名人の方々にお好きな小津作品を1本選んでいただき、お好みのテーマを切り口とした作品紹介コメントをいただく企画です。

第11回はBunkamuraル・シネマ渋谷宮下浅倉奏さんによる作品紹介です。

Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下浅倉奏

2012年、株式会社東急文化村入社。2023年12月8日（金）よりBunkamuraル・シネマ渋谷宮下にて開催の特集上映企画「小津安二郎：モダン・ストーリーズ selected by ル・シネマ」の上映作品セレクトを担当。

「2023年11月の小津作品」―『麥秋』

　「栗原さんちのおすそわけ」のとろけるパンナコッタばかり食べていた時期があった。人と話していてそれを思い出し、10年以上ずっと忘れていたことに、そしてずっと忘れていたその時期を一瞬で思い出せることに驚いた。私があのパンナコッタばかり食べていたのは学生の頃で、長らく会っていない人の顔もカラメルソースの味とともに思い出す。あの頃パンナコッタを食べていなかったら、その人たちの顔はもう思い出せなかったかもしれない。

　記憶は氾濫する。10年やそこらの水位線なんてあっという間に超えてしまう。とくに、食べ物の記憶はかくも強く残る。栗原さんちのパンナコッタを思い出したこの秋の夜、その会話を振り返りながら、『麥秋』のことを考えていた。

　「紀子さん、パン食べない？　アンパン」

　『麥秋』で紀子（原節子）が謙吉（二本柳寛）との結婚を決意した直後、感極まった謙吉の母たみ（杉村春子）が紀子にかけるこの言葉は、場違いのような「急さ」も相まって、多くの人によく知られたセリフだ。好条件で華やかな縁談よりも、つつましくとも安心できる選択の方が大切であると紀子が気づいたことの現れ、あるいは予感のように食べられたショートケーキへの対としてのアンパン。しかしこのアンパンはきっと、そういった脚本上の機能的な役割以上の意味を持っているはずだということが、今なら少し自分のことのようにわかる気がする。

　もしも私が紀子やたみだったら、そんな会話いつまでも覚えてるだろうと思う。忘れられない。これだけ多くの人が覚えているセリフのことを、実際に会話として交わしたふたりが忘れるはずもない。アンパンを見るたび「なんであのとき私は／たみさんはアンパンを食べようなんて言ったのだろう」と笑いながら思い出すだろうし、ある時は会えない家族のことを思い出して泣くかもしれない。一時的であれ離ればなれになった家族はもう簡単には会えないということを、私たちは『父ありき』ですでに知っている。しかし、離ればなれになる姉史子と紀子が砂丘で「大丈夫、平気よ」と言い合ったあの場面、ふたりの感情のまぶしい確からしさもまた、疑うことはできない。

　会話ひとつの有無で決まるあまりにも大きな流れ。「アンパン」という単語ひとつに記憶されうる人生の想像のつかなさ。それが『麥秋』には刻まれている。そしてその記憶は、決して70年以上前の映画の中の紀子やたみ、間宮家の「過去」としてのみ存在するのではない。記憶は氾濫する。時間の水位線を超え、映画を飛び出して、『麥秋』の記憶はいま、2023年11月の私の前に向かって流れている。

浅倉奏

『麥秋』