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三國連太郎生誕100年没後10年
【三國連太郎フィルモグラフィーご紹介】

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【はじめに】
 2023年は、日本を代表する名優の一人である三國連太郎の生誕100年没後10年にあたる節目の年。稀代の名優の足跡の一部をご紹介し、その業績を改めて振り返る。

【鮮烈な映画デビュー】
 1923年に群馬県で生まれた三國連太郎は、14歳の時、密航で大陸に渡り、青島、釜山などを放浪後、召集され、中国に出征。日本の敗戦により帰国した後は、様々な職業を転々とする。
 1950年、東銀座を歩いていた時、松竹のプロデューサーに声を掛けられる。三國が、鳥取県の倉吉市の写真館で撮った写真を、館主が、松竹の「新人俳優募集広告」に勝手に応募していたため、東銀座に突然鳥取から送られてきた写真の本人が現れた、という状況だった。

 当時、木下惠介監督の映画『善魔』の制作中、出演予定だった岡田英次がGHQのレッドパージで降板、代わりになる個性的な俳優を探していた状況の中、急遽、抜擢されたのだ。名伯楽であった木下監督の指導の下、演技経験が全くなかったにも関わらず、翌年の1951年、劇中の役名「三國連太郎」をそのまま芸名として出演。同作でブルーリボン賞新人賞を受賞する鮮烈な映画デビューを飾った。

【日本を代表する名優として】
 映画デビュー以降、木下監督の映画に3本出演した後、当時の映画界の慣習である五社協定との軋轢もあった中、『ビルマの竪琴』(56)『宮本武蔵』シリーズ(61~65)『切腹』(62)『飢餓海峡』(65)『八甲田山』(77)『復讐するはわれにあり』(79)『マルサの女2』(88)『利休』(89)『息子』(91)『ひかりごけ』(92)『三たびの海峡』(95)など、数々の名作に主演助演を問わずに出演。日本を代表する俳優としての揺るがない地位を築いた。

【映画『釣りバカ日誌』への出演】
1988年に始まった映画『釣りバカ日誌』は, それまでの「名優」「怪優」のイメージとは、180度異なるコメディ映画への出演となった、そのギャップと、共演の西田敏行との名コンビぶりに観客は驚き、熱い支持を受けた。三國は、シリーズ全22作品に出演。役名の「スーさん」としても愛される様になった。

【多彩な活動】
 また、俳優としての活動のみならず、書画に優れるなど多彩な才能でその活動は多岐にわたっていた。仏教への造詣も深く著書も多数ある中、生涯のテーマとして、親鸞聖人の研究に取り組み、1986年には、映画『親鸞・白い道』(86)で、原作、監督をつとめ、1987年の第40回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。

【おわりに】
 三國連太郎は、遺作となった『わが母の記』(12)に至るまで、生涯183本の映画に出演した。そのフィルモグラフィーをたどると、それは、戦後の日本映画にとって欠かすことのできない存在だったことを表しているといっても過言ではない。周年を機に、より多くの観客に出演作品が触れる機会が増える様、願ってやまない。


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