【連載】多彩なる多才のアルチザン 映画監督・野村芳太郎 当時の照明スタッフ・小林松太郎が回想する『八つ墓村』と野村芳太郎
【はじめに】
2025年4月より、野村芳太郎監督の「再発見&再評価」を目的としたプロジェクトを展開しています。プロジェクトの動きや各種テーマに合わせて、様々な切り口から野村監督の魅力や関連トピックスをお伝えします!
【今回のテーマ】
9月16日(水)に『八つ墓村』の4Kデジタル修復版が発売になります。今回は、当時、照明スタッフとして参加した小林松太郎が明かす『八つ墓村』撮影の舞台裏をご紹介します。
全国のロケ地を巡り長期間を費やした圧巻の映像美が、4K技術で豊かな色域とディテールで現代に蘇る4K版。現場を知るスタッフの貴重な秘話とともに、より鮮烈になった本作の魅力をぜひ本編でお確かめください!
【連載】多彩なる多才のアルチザン 映画監督・野村芳太郎
当時の照明スタッフ・小林松太郎が回想する『八つ墓村』と野村芳太郎
取材・文/上永哲矢

▼映画を知らない人でもなぜか知ってる、あのフレーズ
「祟りじゃ、たたりなんじゃ〜」
村の老婆・濃茶の尼(演:任田順好)が発した、あまりに有名な叫び声。映画をご覧でなくとも、一度は耳にされたという方も多いのではないだろうか。この当時、流行語にまでなったフレーズや「子どものときテレビで観たらトイレに行けなくなった」「いま観ても怖い」など、迫真のホラー映像が一部の人にトラウマのような記憶を植え付けた作品が『八つ墓村』(1977年/野村芳太郎監督)である。
本作は『砂の器』(1974年)と同スタッフ(監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍、撮影・川又昻、音楽・芥川也寸志)が再結集して製作された一大巨編。『八つ墓村』の映像化作品は数多く、この2026年9月18日(金)公開の新作映画を合わせ実に11本になるが、野村の77年版『八つ墓村』はその契機になった作品といえる。
構想6年、7億円(当時)を投じて挑んだ横溝文学の最高峰。完成までにはさまざまな苦労があったというが、1955年(昭和30)から大船撮影所が閉鎖した2000年(平成12)までの45年間、様々な松竹作品の製作に参加され、本作にも照明スタッフとしてかかわった小林松太郎さんに、ロケ時などの思い出をうかがってみた。
「私が担当した『照明』という仕事は、もう映画づくりの最初から始まるんです。最初に台本を読み込んで、監督や製作部のスタッフ、美術や装飾担当、カメラマンなどと一緒にロケハンに出かけます。物語にふさわしい撮影場所を探し、そこでどうやって撮るか、どういう機材が必要になるかを現地で確認するのですが、とくに『八つ墓村』はロケや撮影が大がかりだった記憶が強い作品です」
物語の舞台は岡山県。地方ロケでは毎回、地元の人々から聞く情報が何よりの手がかりだったという。あの有名な広兼邸も地元の電気店で「庄屋の屋敷が、ものすごい石垣の上にあるよ」と教わったのが出会いだった、と小林は振り返る。
当の野村監督自身も「ロケハンも一年かかり、七百万円を出してもなかなか峠と屋敷がみつからない。屋敷をみつけるまでに一年を要し、それこそ宣伝でなく、日本中でロケハンをした。クランクのおそらく実数でも、百日を超えるという珍しい仕事であった」(『映画の匠 野村芳太郎』)と振り返っている。

多治見家の撮影が行われた広兼邸での撮影風景
▼物語の鍵となる「鍾乳洞」での大がかりな撮影
物語のクライマックスとなったことで知られる、重要な舞台が鍾乳洞。北は岩手から南は鹿児島(沖永良部島)まで日本中を駆け巡って探しあてた鍾乳洞は、満奇洞(岡山)、滝観洞(岩手)、秋芳洞・景清洞・大正洞(山口)、龍河洞(高知)、昇竜洞・水連洞(沖永良部島)。計8ヵ所で撮影された大がかりなロケだった。
「撮影が始まってからも大変でしたよ。鍾乳洞の中ですから外光が入ってきませんし、どこに照明を置いて、どうライティングすべきか、どこにカメラを置けばいいか。沖永良部島の水連洞には撮影監督の川又昻さんと、ロケハンから本番まで合計4回ぐらいは通ったと思います。エレベーターを設置して、太い電気ケーブルやバッテリーを積んで100メートルほど降ろしました。そこに一緒に乗って降りて行ったのですが、ギシギシ揺れるので怖くてね(笑)。撮影後はスタッフ全員で後片付けです」(小林)
その苦労のかいあって、あの恐ろしげな陰影や美しい情景美が画面を飾ったのだ。撮影に入ってからが、また苦労の連続だったと小林は懐かし気に述懐する。
「寺田辰弥役のショーケン(萩原健一)、森美也子役の小川眞由美さんなど個性的な俳優たちでしたからね。議論や衝突も多かったです。とくにショーケンは凄く熱意を込めて演じていたし、演じたものに対して作り手側からもリアクションがほしいタイプでした。ただ野村さんは俳優まかせのスタンスで、始まったらほとんど何もいわない。そのあたりが嚙み合わなくて大変だったように感じました」
野村本人も「ショーケンの気持ちと小川真由美君の衝突もあり、私が『砂の器』以来、橋本プロと二股をかけている点とか、待たされてイライラしている川又昻(たかし)氏の気持ちなぞがしっくりせず、(略)スタッフのまとまりが珍しく悪い仕事となって、あとに残った」と振り返っている。(『映画の匠 野村芳太郎』)
▼名優たちが鎬を削り合った金字塔的作品
金田一耕助を演じた渥美清をはじめ、春代役の山本陽子、久野医師を演じた藤岡琢也、尼子の落ち武者を演じた夏八木勲や田中邦衛など日本を代表する名優が顔をそろえた本作。上記俳優陣は鬼籍に入っている。萩原健一も2019年に逝去し、本年2026年の小川眞由美の訃報も記憶に新しい。萩原健一と小川眞由美は、祥月命日がいずれも3月26日だった。『八つ墓村』での共演を知る人なら、どこか奇縁を覚えずにはいられないところではないか。

「みんな個性があって印象的でしたね。現場では撮影監督の川又昻さんの活躍が大きくて、監督が現場にいないときは川又さんがかなりの部分を仕切っていたところがありました。極端にいえば、野村さんはホン(台本)をあげて、キャスティングは演技ができる人、要はうまい人を起用する。それが決まれば、あとはもうできたみたいなものだと。そういう人でした」(小林)
予告映像でも有名な多治見要蔵(山﨑努)が、桜の舞い散る中を走る場面も印象深いという。

「あれは、クローズアップは朝方に鎌倉山の桜並木の下で撮り、後ろからの引きなどは相模原の桜並木で撮りました。川又さんとは何度も仕事をしていたなかで、言われなくても方向性はわかっていたので、その頃には大体いつも通りみたいな感じでやっていました。そんな調子で、1シーン1シーンこだわり抜いて撮影されているので、通算の撮影期間は3年近く(予告編では2年3ヵ月と表示)かかったと思います」(小林)
公開されるやメガヒットを記録し、日本中に横溝正史ブームを巻き起こした『八つ墓村』は配給収入19億8600万円(1977年邦画配給収入3位。キネマ旬報調べ)を記録。「14週間のロング興行」「批評の評価は予想以上に悪かったのだが、逆に興行成績は予想の倍以上にいった」「松竹の苦境を救った仕事であったことは間違いない」(『映画の匠 野村芳太郎』)と振り返ったとおり、野村監督がいくつもの困難をクリアして完成にこぎつけ、次世代に語り継がれる金字塔的な作品に仕上がったことは間違いない。
<野村組 照明スタッフ>
小林 松太郎 こばやしまつたろう
1937年(昭和12)生まれ。神奈川県鎌倉市出身。松竹大船撮影所(1936~2000年)の近所に生まれ育ち、高校卒業後にアルバイトとして入所、その後社員に。数多くの松竹映画の照明スタッフとして40年以上にわたり活躍。
<著者プロフィール>
上永 哲矢 うえながてつや
歴史著述家/旅行作家。神奈川県出身。日本史のほか三国志を中心とした中国史の記事やルポを各種雑誌やWEBサイトに寄稿・連載する。著書に『三国志 その終わりと始まり』(サンエイ新書)、『戦国武将を癒やした温泉』(イカロス出版)ほか。『峠 最後のサムライ』(松竹)、『大名倒産』(松竹)、『首』(KADOKAWA)の劇場プログラムなど、歴史や時代劇を中心とした映画・ドラマ関連の取材と寄稿も数多く手がける。











