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連載コラム「OZU活のすすめ」第14回 ~松阪編 小津安二郎の生家「小津新七家」のルーツと暮らしを知る町歩き~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第14回は、本町と魚町をご紹介します。江戸時代の初期から中期にかけ、伊勢国からは多くの商人が江戸や大坂に進出しました。伊勢商人と呼ばれた彼らの多くは、松阪及び松阪近郊の出身であったといいます。松阪周辺には茶、水銀、紙など恵まれた特産品が多くありました。中でも伊勢商人に莫大な富をもたらしたのが、江戸で人気を博した松阪木綿です。江戸大伝馬町一丁目には伊勢商人が経営する木綿店が立ち並び、江戸経済の中心となる木綿問屋街を形成しました。伊勢商人は質素倹約を徹底し堅実な商いを行う一方、才覚に溢れた新商法を考案して大衆の心を掴みました。

松阪の商人達は、主人とその家族は松阪にある本宅で暮らし、江戸に常駐する支配人が江戸店(えどだな)を運営するという、特色のある経営体制を取りました。主人は支配人からの手紙で江戸店の状況を把握し、松阪から経営に関する指示を出しました。松阪の城下町を貫く伊勢街道沿いには、江戸店を持つ商人達の広大な屋敷が軒を連ねていたといいます。

OZU活のすすめ第10回で、小津監督の生家は小津与右衛門家の分家であり、与右衛門家が経営する肥料問屋「湯浅屋」の支配人を代々務める家系であったことをご紹介しました。今回は小津監督の生家である「小津新七家」のルーツを辿りながら、本町と魚町を散策しました

※絵葉書「伊勢 松坂大橋ヨリ本町通リオ望ム」:個人蔵

松阪中心部の中町通りから歩いて数分。本町の交差点を越え、伊勢街道の雰囲気を色濃く残す「本町通り」を西へ向かうと、阪内(さかない)川に架かる松阪大橋の袂に、小津清左衛門家の屋敷があります。小津清左衛門家は江戸大伝馬町に紙問屋や木綿問屋を持つ、松阪を代表する豪商でした。

小津清左衛門家は元は西町にありましたが、貞享三年、伊勢街道に面した本町に屋敷を移しました。その後隣り合う2軒の屋敷を購入し、広大な敷地には九棟もの蔵があったといいます。現在は江戸中期に建てられた町屋造りの主屋を始め、前蔵、内蔵、向座敷等が残されています。明治以前の姿に復元修復された屋敷は、「旧小津清左衛門家」として公開されており、松阪の伝統的な商家の暮らしを現在に伝えてくれます。

小津清左衛門家の三代目当主・齋藤清左衛門長弘は、江戸の紙問屋に奉公したのち、承応2年に紙問屋「小津屋清左衛門」を創業しました。独立の好機に恵まれたものの開業資金がなかった長弘に、江戸大伝馬町で木綿問屋を営む伊勢商人・小津三郎右衛門道休(どうきゅう)が救いの手を差し伸べました。道休から二百両もの資金援助を受けた長弘は、自分にも「小津屋」を名乗らせてほしいと申し出ます。道休は屋号「小津屋」の使用を許し、以降長弘は小津姓を名乗るようになりました。同郷の若き商人の夢を後押しした道休は、「古事記伝」を記した国学者・本居宣長の曽祖父にあたる人物です。

小津清左衛門家がある松阪大橋の川上に、魚町橋が架かっています。この橋の対岸に、小津監督が生れた小津新七家の本家、「小津与右衛門家」の屋敷がありました。

小津与右衛門家の初代当主・中西新兵衛は、幼い頃より小津清左衛門家の江戸店に奉公し、支配人にまで出世した人物でした。清左衛門家のしきたりにより、支配人を務め上げた奉公人には仕分金(退職金)が支給され、別家として「小津」姓を名乗ることが許されました。享保元年、江戸店を退職した新兵衛は「小津新兵衛」と姓を改め、松阪に帰郷して中町に住居を構えました。松阪で余生を過ごす筈だった新兵衛ですが、思いがけず江戸の肥料問屋「湯浅屋」の共同経営者となります。

湯浅屋が扱った肥料は「干鰯(ほしか)」と呼ばれる、鰯を乾燥させたものでした。干鰯は戦国時代から主に綿花の肥料として使用され始めました。江戸時代に入ると丈夫で扱いやすい木綿が庶民の間に急速に普及し、日本各地で綿花栽培が行われるようになります。また、江戸や大坂などの都市部では人口の増加に伴い、米や野菜等が大量に消費されるようになりました。藍、菜種、蜜柑など商品作物の栽培も増え、干鰯の需要は時代と共に増していきました。

湯浅屋は宝永5年頃、紀州湯浅村出身の岩崎嘉右衛門と湯浅屋与右衛門が共同出資し、江戸の北新堀に開業した肥料問屋でした。商いは順調でしたが、湯浅屋与右衛門が引退して浦賀に隠居することになります。資金繰りに困った岩崎嘉右衛門は、小津屋清左衛門の支配人だった新兵衛に共同経営の話を持ちかけました。

干鰯を扱ったことのない新兵衛は迷いましたが、店の経営は一切引き受けるという岩崎嘉右衛門の願いを受け入れ、共同経営者となりました。商いは順調だったため「湯浅屋与右衛門」の屋号は変えず、岩崎嘉右衛門は支配人として江戸店を切り盛りしました。

伊勢商人が血縁や地縁のネットワークを商いに活用したように、岩崎嘉右衛門も故郷湯浅村の網元や有力者と深い繋がりを持っていました。干鰯の商いは湯浅村との結び付きをなくしては成り立たないと考えた新兵衛は、湯浅屋に岩崎家の血縁を残したいと考えます。そこで、江戸店に奉公していた岩崎嘉右衛門の甥・北村太七と、新兵衛の次女おちくを娶せ、支配人として小津与右衛門家を支えていくよう分家としました。

太七は新兵衛の「新」と太七の「七」の字を取り「小津新七」と改名しました。小津監督の生家である「小津新七家」の誕生です。以降小津新七家は、小津監督の父・寅之助さんまで六代に渡り湯浅屋の支配人を務めました。

本家からの暖簾分けによる「別家」や、家族が独立して新たに家を構える「分家」によって、松阪には「小津党」又は「小津五十党」と称される程、小津姓を名乗る商人が大勢いたといいます。

魚町橋から折り返し、伊勢街道の南側に位置する魚町通りへ。瓦屋根が連なる街並みから、歴史ある城下町の情緒が感じられます。魚町通りにある、すき焼きの銘店「牛銀本店」を訪れました。牛銀の創業は明治35年。初代当主・小林銀蔵は東京の肉料理店「米久」で修行を積んだ後、故郷松阪の本町通りに精肉店「牛銀」を開業しました。精肉販売を軌道にのせた銀蔵は、店先に「牛鍋と牛めし一銭五厘」の垂れ幕を吊るし、牛肉料理の提供を始めました。

昭和の初めに魚町通りに移転し、以来この地で伝統の味を守り続けています。風情溢れる木造の店舗は、牛銀が経営していた旅館「青柳」を改築したもの。重厚な玄関には創業から受け継がれる「牛肉卸問屋」の看板と、旅館の屋号であった「青柳楼」の扁額が掛かります。青柳の屋号には「柳のように頭を低くして人と接する」という、初代当主の経営に対する思いが込められています。

大正10年、17歳の小津監督の日記に牛銀の名が登場します。

大正10年5月31日(火)晴
一略一
日は西に暮れて亮平さんの所に行つて色々と話し
ていつか牛銀で藤田と祝ふと云ふことになつた。

大正10年5月、小津監督の友人、藤田さんが結婚しました。小津監督は近所に住む友人の亮平さんと、いつか牛銀で藤田さんの結婚祝をしようと話したことを記しています。この時、小津監督は高等商業学校の入学試験に落ちて浪人中の身の上でした。すき焼きの結婚祝いはすぐには実現できなかったかもしれませんが、小津監督の日記から、牛銀が晴れの席に相応しい格式ある料理店であったことが窺えます。

牛銀には小津監督直筆のサインが残されています。このサインは三代目当主・小林正典さんが10代の頃、小津監督に書いていただいたものです。昭和17年生まれの正典さんは、昭和34年〜35年にかけて、銀座8丁目にあった割烹「寿美家」で修行をしていました。たまたまお店を訪れた小津監督に出身地を聞かれ、「松阪の牛銀です」と答えたところ、監督は大変懐かしがり、笑顔でサインしてくださったそうです。思わぬところで出会った松阪の若者、しかも懐かしい牛銀の出身と聞いて、小津監督の胸には望郷の思いが込み上げたに違いありません。

小津監督は当時55歳〜57歳。『お早よう』、『浮草』、『秋日和』が公開された頃になります。正典さんのサイン帳には、小津作品に出演した三上真一郎さん、岡田茉莉子さん、若尾文子さん、桑野みゆきさん、宝田明さん等のサインも並んでいました。一冊のサイン帳から多くの映画人が訪れた銀座の割烹の活況が伝わってきます。

牛の一頭買いを行っていた牛銀では、様々な牛肉の部位を活かし、昭和初期から西洋料理の提供を始めました。牛銀本店の隣に併設された「洋食屋牛銀」では、松阪牛を使った自慢の洋食を楽しむことができます。メニューの中から、昭和初期に供されていたという「松阪牛ビーフカツ丼」を注文しました。現在も幅広い年齢のお客様に愛されている人気メニューだそうです。揚げたてのビーフカツにデミグラスソースをたっぷり絡めていただきます。サクサクの衣に包まれたお肉はしっとりと柔らかく、さすが松阪牛!という美味しさでした。

牛銀から魚町通りを東へ進むと、江戸大伝馬町で木綿問屋「丹波屋」を経営した長谷川治郎兵衛家の屋敷があります。長谷川家は伊勢商人の中でもいち早く江戸に進出して成功を収めました。敷地内には30以上もの部屋がある主屋や幾つもの蔵が立ち並び、広大な日本庭園には四季の移ろいと共に小鳥の囀りや虫の声が響きます。現在は建物の公開と共に、同家に伝わる資料や美術品を紹介する企画展が行われ、松阪を代表する豪商の暮らしをより深く知ることができます。

魚町通りを更に西へ行くと、食品店などが並ぶ賑やかな一角が現れます。魚町はその名の通り、鮮魚などの食材を扱う商店が多く集まり、「松阪の台所」として活況を呈した町でした。小津監督が生まれた小津新七家も、日々の暮らしの中で魚町の商店を利用していたことが分かっています。

かまぼこ等の練り製品を製造販売している川清商店を訪れました。元は川庄商店といい、明治時代に魚屋と出張料理を兼ねた店として創業しました。川庄商店の顧客には松阪の豪商である小津家、国分家、長谷川家が名を連ね、祝事や弔事の際に顧客の家に出張して料理を作りました。小津監督の生まれた小津新七家も川庄商店の顧客であり、伊達巻を購入した領収書が残されています。

川清商店は、川庄商店に弟子入りしていた初代・白井清一郎が独立し、昭和7年に開業しました。店内のケースには美味しそうなかまぼこや魚ねり天ぷらが並びます。当主の白井さんが気さくにお勧め商品や調理方法などを教えてくれますよ。祝い事や引出物に使われる細工かまぼこの技術を活かした、おめでたい鯛やバレンタイン限定のハート型のかまぼこも名物となっています。

最後に風格ある店構えの糀屋太郎兵衛商店を訪れました。看板に書かれた「もやし」とは味噌等の熟成に使う種麹のこと。糀屋太郎兵衛商店は江戸時代から魚町通りで糀の製造販売を行ってきました。現在も蒸した米を糀室で発酵させる昔ながらの製法を守り続けています。

明治26年に建てられた店舗には何代にも渡る商家の歴史が刻まれています。帳場机に大書きされた「糀と米と交換」の文字は、製造した糀と糀の原料である米を物々交換していた名残です。数は減ったものの、現在も米と糀の交換を行っているお得意さんがあるそうです。昔は各家庭で味噌を仕込んだため、糀は生活に欠かせないものでした。小津新七家にも詳しい店名は不明なものの、魚町の糀屋と取引をした記録が残っています。

糀屋太郎兵衛製の糀を使い、3年程熟成させた赤味噌を購入しました。東海地方では古くから風土に適した赤味噌が作られてきました。大豆を原料とし長期間熟成させる赤味噌は、濃厚なコクと香りが特徴です。量り売りに使われる秤にも歴史を感じますね。

魚町通りは小津新七家のルーツと共に、小津監督が暮らした大正時代の息吹を伝えてくれます。質素倹約を重んじつつも大胆な発想で新商法を考案し、成功を掴んだ伊勢商人についても深く知ることができました。松阪の商家に生まれ、湯浅屋の支配人を務める寅之助さんの背中を見ながら育った環境は、小津監督の人生や作品にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。

日記文引用「小津安二郎松阪日記」

文:ごとう ゆうこ

 

 

「小津安二郎松阪日記」について詳しくはこちら

https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/ozuyasujirou.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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