連載コラム「OZU 活のすすめ」第 18 回~飯高編 小津安二郎がオーヅ先生だった日々 子供達と遊ん だ秋葉山 櫛田川 局ヶ岳を歩く~
カテゴリ:連載コラム「OZU活のすすめ」
皆さまこんにちは。今回も小津監督が代用教員を務めた松阪市飯高町の小津スポットをご紹介します。大正11年、飯南郡宮前村(現松阪市飯高町宮前)の宮前尋常高等小学校に赴任した小津監督。松阪近辺の訛りで小津を「オーヅ」と伸ばして発音したことから、子供達に「オーヅ先生」と呼ばれました。小学校や下宿先の留蔵の他にも、飯高町にはまだまだ思い出の場所が沢山あります。体操の時間に登った秋葉山や川遊びを楽しんだ櫛田川など、オーヅ先生と子供達の思い出を辿ります。

散策の前にお昼ごはんを調達しました。道の駅 飯高駅に隣接する商業施設「香肌横丁」には、個性豊かなグルメのお店が軒を連ねます。地元の米農場が営むお米とおにぎりの店「八十八屋」は、山からの綺麗な水で育まれたこだわりのお米と、注文を受けてから握る出来立てのおにぎりが評判です。自家製の松阪牛しぐれや、飯高名産のとっとき焼きねぎ地味噌など、ご当地ならではの具材が選べるのも大きな魅力です。

まずは、子供達が「秋葉さん」と呼んだ秋葉山へ。オーヅ先生は体操の時間に生徒達を連れて秋葉山に登ったことがありました。山を駆け回ったり相撲を取ったり、生徒達はのびのびと体を動かしました。たっぷり遊んだ帰り道、学校近くのカナグツ屋という店の前まで来ると、オーヅ先生から「止まれ」と号令がかかります。「キチッと並んで学校まではチャンと行進せい」。お喋りしながらダラダラ歩いてきた生徒達もちゃんと心得ていて、カナグツ屋から学校までは整然と並んで行進しました。生徒達との息がぴったり合った様子は、先生というよりも大きなガキ大将のようですね。現在、秋葉山には宮前農村公園が整備されています。遊具が並ぶ芝生広場から宮前里山遊歩道を歩くと、オーヅ先生と生徒達が遊んだ秋葉神社へ行くことができます。

松阪と紀州を結ぶ和歌山街道は、宮前の宿場町を抜けると山の中へと続いていきます。風格漂う古道は、赤桶(あこう)地区に住む子供達の通学路でもありました。赤桶分校に通う子供達は、5年生になると毎朝4kmの山道を歩いて本校まで通学しました。街道の途中にある珍布峠(めずらしとうげ)には、巨大な岩を切り崩した見事な切り通しが残ります。
「めずらし峠」という不思議な名は、日本神話に由来します。昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)が珍布峠にさしかかったところ、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と出会い、「おお、めずらしや」と言われたことから名付けられました。この時、2人の神様が櫛田川に大石を投げ入れて伊勢国と大和国の国境を分けたという、「国分け伝説」が残っています。珍布峠の少し先に行くと、櫛田川の中程に天照大神が投げ入れたという巨大な礫石(つぶていし)を見ることができます。

神様が投げた礫石ではありませんが、オーヅ先生が櫛田川に麦わら帽子を投げたという話が残っています。ある時、オーヅ先生は頭に被っていた麦わら帽子を橋の上からピューッと放り投げました。川風に吹かれて高く舞い上がった帽子を見た生徒達は歓声を上げたといいます。まるで映画のワンシーンの様な光景は、生徒達の脳裏に鮮やかな記憶となって残りました。

櫛田川には幾つかの橋があり、オーヅ先生がどの橋から帽子を投げたのかは諸説ありますが、野々口橋の下流にあった吊り橋ではないかと推測されています。かつて吊り橋が架かっていた宮前発電所の辺りに行ってみました。今はコンクリート製の沈下橋が架かり、風情あふれる風景が広がっています。

吊り橋跡の下流には「大淵」と呼ばれる場所があります。深い緑色の水をたたえた大淵は櫛田川の中で一番深いと云われ、鬱蒼とした大樹が川面を覆うように茂っていました。夏休み前に、オーヅ先生と生徒達は大淵の少し下流にある浅瀬で川遊びを楽しみました。浅瀬のそばには甲羅干しにピッタリの平たい大岩があり、オーヅ先生は岩の上から子供達の様子をじっと見守っていたといいます。

オーヅ生生と生徒達の思い出が詰まった櫛田川のほとりで、八十八屋のおにぎりをいただきました。ふんわり握られたおにぎりにパリパリの海苔を巻いてかぶりつきます。たっぷり入った具材は勿論のこと、お米そのものが美味しくて幾つでも食べられそうです。櫛田川のせせらぎを聴きながら最高のお昼ごはんとなりました。

令和5年に出版された「おーづせんせい」(徳間書店)は、オーヅ先生と子供達の思い出を元に書かれた小説です。自然豊かな宮前村に赴任したおーづ先生が山間の村の暮らしを知り、子供達と触れ合いながら人間的に成長していく青春物語です。作中に登場する個性豊かな子供達は皆可愛く、愛さずにはいられません。漫画家ちばてつやさんが描く小津監督のイラストは、青春時代に思いを馳せているかのような優しい表情をしています。
著者の児島秀樹さんが小説の舞台となった飯高町を紹介する「おーづせんせい散策マップ」が、松阪老人福祉センター内の「小津安二郎資料室」や「道の駅 飯高駅」等、松阪市内の施設に設置されています。小津監督ゆかりの地を訪ねながら、おーづ先生と子供達が生き生きと駆け回る小説の世界に浸ることができますよ。
飯高町北部に聳える標高1,029mの局ヶ岳は、三角形の美しい山影から「伊勢の槍ヶ岳」とも称されています。地元の方々からは「岳(だけ)さん」と呼ばれ、宮前尋常高等小学校の遠足コースとして親しまれてきました。オーヅ先生も秋の遠足で生徒達と共に岳さんに登り、この遠足は多くの生徒達の思い出に残っています。登山をする時もオーヅ先生は普段と変わらぬ絣の着物にセルの袴、そして大きな下駄履きでした。

登山口から頂上までは大人の足で2時間程。オーヅ先生が登った旧登山道を辿ってみたくて、私も岳さん登山に挑戦しました。見上げる程の急斜面に九十九折りの山道が続きます。木々に遮られてはいますが、視界が開けた箇所から切れ落ちた斜面を見下ろした時は、恐ろしくて足がすくみそうになりました。
6年生だった女子生徒の回想には、生徒達を気遣うオーヅ先生の優しさが書かれています。足の弱い女子生徒達が皆から遅れてしまったところ、オーヅ先生は「元気だせ、元気だせ」と優しく声をかけながら後ろから付いてきてくれました。大きな下駄を履いてニコニコしながら励ましてくれたそうです。

長い斜面を登り切って尾根に出ると、頂上まではあと一息。槍のように尖った頂上へ続く尾根道は更に険しい急登が続きます。剥き出しになった岩や木の根が登山道に張り出している箇所もあり、両手で木の根に掴まってよじ登りました。

やっと到着した頂上には爽やかな風が吹き、飯高町を一望する眺めの美しさに疲れも吹き飛びました。下山は安全な新登山道を選びましたが、急な山道を下り続けるのは中々大変でした。下駄履きでの下山は随分骨が折れたのではないでしょうか。幼い頃から山を歩き慣れた生徒達も、岳さんへ下駄で登るなんて聞いたことがありませんでした。オーヅ先生が下駄で岳さんに登った話は、「まるで行者さんや」と生徒達の間で評判になりました。

岳さんの麓にある局ヶ岳神社は、春になると満開の桜の花に彩られます。私が登山したのは2024年の春、丁度桜の頃でした。岳さんを訪れる方は、最新の登山道状況をご確認の上、安全に登山をお楽しみください。

※写真 飯高オーヅ会提供
オーヅ先生が子供達と過ごした1年が過ぎ、大正12年3月26日、宮前尋常高等小学校の卒業式が行われました。高等科2年の卒業生と教員の記念写真には、絣の着物にセルの袴、大きな下駄を履いたオーヅ先生が写っています。
オーヅ先生は代用教員を1年で辞め、東京へ行くことが決まっていました。大正2年3月、家族と共に生まれ故郷の松阪に移住した父・寅之助さんですが、仕事が忙しくなり、再び東京に戻ることになったのです。代用教員を務めるオーヅ先生と、松阪の女学校に通う妹の登貴さんを残し、他の家族はひと足先に東京へ転居していました。
卒業式の翌日、オーヅ先生は自動車で宮前村を後にしました。松阪駅前の旅館では、父・寅之助さんと女学校の卒業式を終えた登貴さんが待っていました。10年間に渡る三重県での生活を終え、小津家は再び東京へと居を移しました。大正12年8月、オーヅ先生は松竹蒲田撮影所に撮影助手として入所し、映画への憧れを現実のものとしていきます。

小津監督が代用教員を務めた当時小学3年生だった柳瀬才治さんは、担任の先生が休んだ時にオーヅ先生の面白い話を聞いた1人です。平成5年、柳瀬さんが中心となり当時の在校生達が設立した「飯高オーヅ会」は、飯高町と協力しながら小津監督の顕彰活動を行ってきました。設立の翌年に開室した全国初の顕彰施設「小津安二郎資料室」には、遠方から多くの映画ファンが訪れます。毎年12月には飯高オーヅ会主催の「飯高オーヅ会 映画祭」が開催され、小津作品の上映やゲストを招いてのトークイベントが行われます。記念すべき第30回を迎えた昨年の映画祭は、活動弁士の澤登翠さんを招いて『浮草物語』が上映されました。
平成6年、柳瀬さんは当時の在校生達が存命の内にと、オーヅ先生の思い出を集めて一冊の文集にまとめました。70年の時を超えて編まれた文集は、大きな下駄を履いたオーヅ先生と宮前村の子供達の優しい思い出に満ちています。OZU活のすすめに書いた生徒達のエピソードは、この文集から紹介させていただきました。

暑中御見舞有難う
随分暑くなりましたが御変もなく
不相変の元気で毎日大渕の清い冷
たい水につかつてゐる事でしやう
松阪老人福祉センターの敷地内に建つ「敬慕の碑」には、オーヅ先生が5年生の男子生徒へ送った暑中見舞いが刻まれています。教え子達の思いが込められた碑の中央には、遠足で登った局ヶ岳が美しく映り込みます。

代用教員を務めた後、小津監督が飯高町を訪れることはありませんでしたが、小津監督の胸に子供達との思い出が息づいていたことを示す手紙があります。大正13年、20歳の徴兵検査で甲種合格となった小津監督は、一年志願兵として東京青山の近衛歩兵第四連隊に入営しました。この手紙は兵役に就いていた大正14年10月18日、兵舎から友人に宛てて書かれたものです。
芝居や活動や運動会や帝展や秋らしい女の姿だけで秋だと思はなればならない俺にとつて、嘗つて一ケ年の宮前の生活が限りなく浦山敷しい。大渕と云ふのがあつた。秋葉山と云ふのがあつた。局ケ岳に登つたことがあつた。角屋の二階で秋雨を聞いて鮎のうまにを喰つた。井上の汽笛が六時を〆すといつとはなしに夕闇に這い上つて来て茶畑を包む。「夕めしやしやけ、かいろ」宮前の自然児はこうして秋を送つてゐた。
小津監督が書いた宮前村の秋の情景は、まるで目の前で見ているかのような鮮やかさです。小津作品に描かれた子供達の様子や山間の村の暮らしには、きっと宮前村で過ごした1年間の思い出が反映されている筈です。皆さまも飯高町へ小津監督がオーヅ先生だった頃の思い出を辿りにいらっしゃいませんか。
回想引用:『人それぞれに オーヅ先生の思い出』 柳瀬才治/飯高オーヅ会
文:ごとう ゆうこ
『おーづせんせい』児島秀樹/著 徳間書店
https://www.amazon.co.jp/dp/4198656193
おーづせんせい散策マップについてはこちら https://www.pref.mie.lg.jp/MCHIIKI/HP/m0027200056.htm













