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連載コラム「OZU活のすすめ」第17回 ~飯高編 小津安二郎がオーヅ先生だった日々 代用教員時代の1年を辿る~

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皆さまこんにちは。OZU活のすすめ第17回は、三重県松阪市飯高町をご紹介します。松阪駅からバスに揺られて約1時間。飯高町は櫛田川と緑の山々に囲まれた自然豊かな町です。櫛田川の清流に沿って松阪と紀州を結ぶ和歌山街道が通り、かつての宿場町には江戸時代の面影を残す町並みや旧跡を見ることができます。

大正10年3月に宇治山田中学校を卒業した小津監督は、高等商業学校の入学試験に落ち、1年間の浪人生活を送りました。翌年の春に受けた師範学校の入学試験も不合格となり、大正11年4月から1年間、松阪市から30km離れた飯南郡宮前村(現松阪市飯高町宮前)で代用教員を務めました。

代用教員とは、尋常小学校の教員不足を補うため、教員資格を持たない旧制中学校や旧制女学校の卒業者を教員として雇用する制度でした。小津監督は18歳で小学校の先生になったのです。

当時、松阪市から宮前村までは、汽車とバスを乗り継いで約2時間の道のりでした。まずは松阪から15km離れた飯南郡大石(おいし)村(現松阪市飯高町大石)まで軽便鉄道で向かいます。和歌山街道の宿場町だった大石村には弘法大師が開いた大石不動院があり、松阪近郷で随一の景勝地と謳われました。大正時代には三階建の水月楼など料亭が並び、鮎料理を楽しむ人々で賑わったそうです。

大正時代に撮影された大石駅付近の写真には、和歌山街道を行き来する人力車や荷馬車が写っています。ここから宮前村までは更に15km。未舗装の和歌山街道を時速10〜20kmの乗合バスに揺られて1時間程かかかりました。

※写真:松阪市郷土資料室蔵

小津監督が赴任した宮前尋常高等小学校(現松阪市立宮前小学校)は、義務教育の尋常科(6年制)と自由進学の高等科(2年制)が併設された小学校でした。本校の他に赤桶(あこう)分校と下滝野分校があり、分校の生徒達は5年生から本校へ通いました。

小津監督は5年男子組48名の担任となりました。女子組42名と合わせると、5年生には90名の生徒がいました。松阪近辺の訛りで小津を「オーヅ」と伸ばして発音したことから、小津監督は生徒達から「オーヅ先生」と呼ばれました。

絣の着物にセルの袴、そして大きな下駄がオーヅ先生のトレードマークでした。当時の男性教員は黒い詰襟の洋服姿が一般的で、着物姿は珍しかったようです。オーヅ先生も一度は詰襟の洋服を着て登校しましたが、生徒達には不評だった様子。「先生、似合わん似合わん」と皆に言われて着物に着替えてきたオーヅ先生を見て、生徒達は「それほうえええわ、先生はそれほうよう似合うわ」と喜びました。大きな体で顔にはニキビがあり、一見怖そうに見えるオーヅ先生は、いつしか子供達の人気者になっていきます。

5年生男子は1週間に30コマの授業があり、オーヅ先生は算術、国語、理科、日本歴史地理、図画、体操を教えました。週に2コマずつある修身と唱歌は他の先生が担当したため、その時間は高等科の生徒達に体操と綴り方(作文)を教えました。

高等科は1年生と2年生の複式学級で、男女合わせて75名の生徒がいました。13歳にもなると、先生に反抗する男子生徒もいたようです。高等科1年生だった男子生徒の回想には、オーヅ先生に「帰りたかったら帰れ」と注意されて、大喜びで本当に帰ってしまったことや、午後の授業をさぼって村の祭の投げ餅拾いに出かけたというヤンチャ振りが綴られています。

オーヅ先生が赴任した 大正11年、宮前小学校では新運動場の造成工事が行われました。運動場が使えない間は、体操の時間に神社の境内で相撲を取ったり、櫛田川の砂地で柔道を教えました。生徒達にルールを教え、野球をしたこともありました。ボールの代わりに手毬を使い、バットは木の棒を削って作った物でしたが、上手くボールを打った生徒は「ホームランだから一まわりして打った所まで戻れ」とオーヅ先生に言われ、とても嬉しかったと回想しています。生徒達に野球を教える様子は、中学校の夏休みに友人達と野球に夢中になっていた日記を思い起こさせます。きっと体操の時間も全力で野球を楽しんだに違いありません。

当時の宮前小学校には体育館や講堂がありませんでした。雨が降ると、オーヅ先生は体操の代わりに教室でローマ字を教えました。生徒達が興味を持ちそうな世の中の出来事や映画の話題を、ローマ字で書いて読ませたといいます。メーテルリンク原作「青い鳥」の映画が松阪で上映される話題、遥か遠いアメリカの様子、ハリウッドで活躍する日本人俳優・早川雪洲の話など、オーヅ先生が書くローマ字のニュースはとても面白く、生徒達は楽しみながら新しい知識を吸収しました。

小学校の教育課程にローマ字や柔道はありませんでしたが、オーヅ先生は独自の判断で教えていたようです。海外の映画俳優にファンレターを送っていたオーヅ先生は、英語を学ぶことで世界が広がる素晴らしい経験をしたに違いありません。自分が持つ知識の中から生徒達の将来に役立つものを教えたいと、授業の内容を工夫したのではないでしょうか。少々型破りではあるものの、生徒のことを第一に考えるオーヅ先生の温かい心が伝わってきます。

5年生男子組の隣には、3・4年生の複式学級の教室がありました。担任の先生が休むとオーヅ先生は教室の間にある仕切り戸を行き来し、5年生の授業と掛け持ちで自習の見回りをしました。時には5年生の教室に3・4年生を集めて話を聞かせることもありました。3・4年生は男女合わせて77名。自分の腰掛けを運び、あるいは5年生の間に座らせてもらい、100名を超える生徒達がすし詰めになってオーヅ先生の話に耳を傾けました。

勇気ある男の人の話、可哀想な女の子の話、シャリコベや幽霊が出てくる怖い話など。生徒達が聞いたハラハラドキドキのお話は、まさにオーヅ先生が中学時代に夢中になった連続活劇を思い起こさせます。中学時代、友人や後輩達に活弁を真似て映画のストーリーを語っていたオーヅ先生。身振り手振りを交えた話しぶりは、本物の活動弁士の様に見事だったそうです。生徒達は身を乗り出し、瞳を輝かせてオーヅ先生の話に聞き入りました。授業終了の鐘が鳴ると、「続きはまた今度」と話を切り上げました。この終わり方も「続きは来週のお楽しみ!」で終わる連続活劇を連想させますね。

オーヅ先生の下宿は、宮前小学校の近くにある青木家の裏座敷でした。「留蔵(とめぞう)」の屋号で呼ばれる青木家は、現在もオーヅ先生が下宿した当時の佇まいを残しています。

留蔵の裏座敷には5年生の生徒達がよく遊びにやって来ました。オーヅ先生は遊びに来た生徒達にお菓子を出して歓待し、中学校進学を目指す生徒達には勉強を教えました。近所に住む女子生徒達も妹を連れて遊びに来ました。オーヅ先生から部屋の掃除を頼まれて、お駄賃にもらうお菓子が楽しみだったことを回想しています。しかし、最初の頃は女子生徒が遊びに行くと恥ずかしがって隠れてしまう、とても照れ屋な先生だったそうです。

留蔵の縁側でマンドリンを弾く写真は、高等科2年生の男子生徒がオーヅ先生から貰って大切にしていたものです。写真の台紙には『小津先生今ハ松竹ノ監督サン』と添え書きがありました。撮影者は6年生の担任だった間宮先生ではないかとのこと。間宮先生も村内に下宿していたので、オーヅ先生とは互いの下宿を行き来する親しい間柄だったのかもしれません。

オーヅ先生は遊びに来た生徒達に「枯れすすき」などの流行歌をマンドリンで弾いて聴かせました。学校にあったオルガンを弾きながら歌うこともあったそうです。中学時代の日記には学校の講堂でオルガンを弾いたことが記されており、日記帳の余欄には当時流行した「さすらひの歌」と「城が島」の歌詞が書かれていました。宮前小学校でもこれらの流行歌を生徒達と歌っていたのかもしれませんね。

留蔵から和歌山街道を歩き、旧宮前村の中心地へ。オーヅ先生が生徒達と相撲を取った花岡神社の境内には、樹齢800年を超える大銀杏が聳えています。花岡神社の歴史は古く、源平合戦の頃、源義経に仕えた伊勢三郎義盛が花岡神社の辺りに陣を構え、鷹民山に城を築いた平信兼を討ったという話が伝わっています。

花岡神社の周辺には宿場町の面影を残す風景が見られます。神社の向いにある「かどや旅館」は江戸時代から続いた旅人宿で、現在も2階建の立派な建物が残っています。かどや旅館は宮前小学校に勤めていた角谷先生のお宅でした。小津監督は宮前を去る際、角谷先生に挨拶に行き、送別に娘さんのお酌でお酒をご馳走になりました。また宮前村を去ってから友人に宛てた手紙には、かどや旅館の2階で鮎の甘露煮を食べた思い出が書かれています。

かどや旅館のそばには、花岡座という芝居小屋がありました。オーヅ先生は立派な廻り舞台のある花岡座で学芸会を開催できないかと考えました。舞台の裏方を務めていた父兄に小屋を開けてもらい、5年生男子組の生徒達は、弁慶や義経に扮して勧進帳の「安宅の関」の芝居を練習しました。木の枝を削って刀や金剛杖を作り、刀の鍔はボール紙を黒く塗ったり銀紙を貼ったりと工夫しました。残念ながら花岡座での学芸会は実現しなかったものの、5年生男子組の生徒達は、後に映画監督となったオーヅ先生が演技指導をした最初の役者さんだったのではないでしょうか。

花岡座は小津監督にとって初恋の思い出の場所でもありました。友人に宛てた手紙に、千代店という煙草屋の看板娘・いとゑさんと、花岡座に芝居見物に行ったことが書かれています。いとゑさんは当時17歳。近隣の青年達に人気のある美しい娘さんだったそうです。

宮前村には何軒かの煙草屋があり、オーヅ先生は下宿に遊びに来る生徒によくお使いを頼みました。しかし、「オーヅ先生は千代店には自分で煙草を買いに行く。いとゑさんのことが好きに違いない」と高等科の女子生徒達の噂になっていました。照れ屋のオーヅ先生はいとゑさんへの思いを胸に秘めていた筈ですが、女の子達のするどい観察眼は見逃さなかったようです。残念ながらいとゑさんには他に好きな人があり、オーヅ先生の恋は片想いに終わったとか…。

昭和34年3月、『お早よう』の撮影現場で撮影された55歳の小津監督です。教室のセットで子供達に演技指導をする姿は、まるで本当の授業風景の様です。代用教員時代もこんな笑顔で子供達に接していたのではないでしょうか。小津監督がオーヅ先生だった頃を思わせる素敵な写真ですね。

現在、宮前小学校は町の高台に移転し、オーヅ先生が子供達と過ごした木造校舎の跡地には、松阪市老人福祉センターが建っています。センターの1階にある小津安二郎資料室には、代用教員時代の暮らしを伝える資料や、小津監督のご家族から寄贈された愛用の品などが展示されています。マンドリンを弾く写真も資料室で見学することができますよ。

資料室の入口には、飯高町を訪れたゲストのサインが飾られています。小津作品に出演した俳優さんや生前の小津監督を知る方々など、多彩な顔触れがずらりと並ぶ圧巻のコーナーです。

私のイチオシの展示資料は、宇治山田中学校の生徒手帳です。鮮やかな朱色のインクで表紙に住所、裏表紙に氏名が記載されています。中学時代のゆかりの地を巡ってきただけに、小津監督がこの生徒手帳を持って通学していたのかと思うと感慨深いものがあります。

小津安二郎資料室を後にし、「道の駅 飯高駅」に立ち寄りました。飯高駅には日帰り入浴を楽しめる天然温泉があり、レストランでは名産の松阪牛を始め、鹿肉や猪肉のジビエメニューを味わえます。川遊びができるスポットや宿泊コテージも併設され、季節を問わず多くの人が訪れる人気の施設です。

販売所には地元の特産品やお土産が豊富に揃っています。野菜や果物が並ぶ産直コーナーには、立派な葉付き大根や白菜が積まれていました。新鮮な野菜を目当てに飯高駅を訪れるお客さんも多いそうですよ。

留蔵の近くに、和歌山街道を行き来する馬方達が利用した「奈良屋」という店がありました。オーヅ先生は奈良屋で朝晩の食事をし、昼は弁当を作ってもらいましたが、時々は留蔵の裏庭で火を熾して自炊をすることもありました。「晩に焚いて食べるんじゃ」オーヅ先生は5年生の男子生徒に頼んで、畑で採れた大根や茄子などを届けてもらったといいいます。

これからの時期はタラの芽やこごみなど、春の山菜も沢山売り場に並びます。オーヅ先生が焚いて食べた、飯高町の新鮮な野菜をお土産にしては如何でしょうか。

小津監督の青春時代を感じられる飯高町。大正時代と変わらぬ風景が訪れる人を迎えてくれます。次回はオーヅ先生と子供達が駆け回った自然豊かな小津スポットをご紹介します。

※「伊勢松阪輕便終點 大石不動坂」筆者私物の絵葉書より掲載

文:ごとう ゆうこ

 

 

 

 

 

『お早よう』https://www.cinemaclassics.jp/ozu/movie/2832/

小津安二郎監督公式サイトはこちら https://www.cinemaclassics.jp/ozu/