生い立ち
1919年(大正8年)日本映画の黎明期に活躍し、後に松竹蒲田撮影所の所長としても大きな功績を残した野村芳亭監督(1880-1934)の長男として誕生。撮影所や映画館を遊び場として成長します。16歳で芳亭が亡くなった後、改めて映画監督になることを決意。慶応大学文学部芸術学科に進学します。1941(昭和16)年、太平洋戦争勃発に伴う繰り上げ卒業後、松竹大船撮影所に入社。翌年、応召され、ビルマ戦線で弾薬輸送の任務についた後、インド東部インパール作戦に送られます。奇跡的に生還することができましたが、軍隊生活は、あしかけ5年間にも及びました。
日本一の助監督
戦後、松竹大船撮影所に復職した芳太郎は、助監督として、様々な作品に参加しました。『醜聞』(50)の撮影で、初めて大船撮影所に足を踏み入れた黒澤明監督(1910ー98)は、翌年の『白痴』(51)と合わせた2作品における芳太郎の仕事ぶりを「日本一の助監督」と絶賛しました。そして、自身の作品『羅生門』(50)『生きる』(52)『七人の侍』(54)などで、脚本を担当した橋本忍を紹介します。この二人の出会いが、後の『張込み』(58)や、14年の歳月をかけて完成させた自身の代表作である『砂の器』(54)など、日本映画史上に燦然と輝く作品群の誕生につながりました。
『昭和枯れすすき』撮影風景。キャメラを覗く野村監督。右は、川又昻撮影監督
『砂の器』撮影風景。演技指導中の野村監督。左から2人目。
観客に向けた映画作り
監督に昇進後は、会社の要請に応じて、ラブコメ、ミュージカル、時代劇、女性の一代記、犯罪物など、ジャンルを問わず、常に、観客を意識した作品を多数生み出しました。
野村芳太郎監督は、「映画作り」について、こう記しています。
物を作る人間にとっていちばんの喜びは、多くの批評家に称賛を受けることではない。
その作品がヒットして、大勢の人が劇場に集まり、ワイワイ見ている様子を同じ劇場の片隅で味わうことが、作り手の至上の喜びではないかと思っている。
『キネマの天地』劇場用パンフレットより 1986年
常に新しい映画を求めて
物心つかぬ頃から、撮影所を遊び場として育ち、監督昇進後は、新しい映像表現に積極的に挑戦しつつ、「娯楽としての映画」を追い求めた野村芳太郎監督。様々な作品を手掛けると同時に、14年の歳月をかけて完成させた代表作『砂の器』(74)をはじめとする松本清張原作の作品群は、「重厚な社会派サスペンス映画」として、日本映画の新しいジャンルを切り開きました。
生涯にわたって送り出した映画は、驚異の88本。山田洋次監督をはじめ、後輩の育成にも積極的で、プロデューサーとしても、『八甲田山』(77)『天城越え』(83)といったヒット作を手掛けるなど、日本映画史に大きな足跡を残しました。
応召され、予備士官学校にて教育を受ける。
第十五師団独立自動車第百一大隊小隊長として、ビルマ戦線の弾薬輸送の任務に従事。1944年、「史上最悪の作戦」と称されるインパール作戦に送られる。