松竹Cinema Classics

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小津安二郎 OZU110th ANNIVERSARY

CHRONOLOGY

  1903 12月12日 東京深川(現・東京都江東区)に父・寅之助、母・あさゑの次男として生まれる。
大正天皇即位
日本初の本格的な映画会社、日本活動写真株式会社(現・日活株式会社)が創立。
1912  
  1913 小学生の時に父の故郷・三重県松阪市に移る。
自宅近くの愛宕町「神楽座」で尾上松之介の作品を観たのがきっかけで、映画に興味を持ち始める。
第一次世界大戦が勃発(1914年~1918年) 1914  
この頃より婦人の縮髪
(パーマネントウェーブ)の流行が始まる。
1915  
  1916 小学校卒業、中学校入学と同時に寄宿舎に入る。
戦後恐慌が始まる。 1920  
  1921 中学校卒業。
  1922 飯高町の尋常小学校で1年間代用教員を務める。
関東大震災 1923 妹の女学校卒業を機に上京。深川に住む。
撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。
ラジオ放送が始まる。 1925  
昭和天皇即位
西洋文化に影響を受けた先端的な若い男女の事を指す、「モボ」「モガ」という言葉が流行。(それぞれ「モダンボーイ」「モダンガール」を省略した言葉)
1926 演出部に移り、時代劇松班の助監督となる。松班の監督は、大久保忠素、斎藤寅次郎の二人。
斎藤寅次郎、助監督部の清水宏、佐々木啓祐、撮影部の浜村義康の4人と共に、撮影所近くの家を借りて共同生活をする。
東京で地下鉄(上野~浅草間)が開通する。 1927 『懺悔の刃』* 監督デビューを果たす。
所属していた時代劇部が京都撮影所に合併されるが、小津は蒲田に残る。
大相撲のラジオでの実況放送が始まる。 1928 『若人の夢』*
『女房紛失』*
『カボチャ』*
『引っ越し夫婦』*
『肉体美』*
ニューヨーク株式大暴落。世界恐慌が始まる。
大学卒業者の就職難が深刻化する。
1929 『宝の山』*
『学生ロマンス 若き日』


『和製喧嘩友達』


『大学は出たけれど』


『会社員生活』*
『突貫小僧』
ハイカラ女性に「マニュキア」「ロング・スカート」が流行。

「エロ・グロ・ナンセンス」「ルンペン」といった言葉が流行語となる。
1930 『結婚学入門』*
『朗らかに歩め』


『落第はしたけれど』


『その夜の妻』


『エロ神の怨霊』*
『足に触った幸運』*
『お嬢さん』*
キネマ旬報ベスト・テン 日本現代映画部門第3位
満州事変勃発

土橋式による日本初の本格的なトーキー作品『マダムと女房』(五所平之助監督)が発表される。
1931 『淑女と髯』


『美人哀愁』*
『東京の合唱』
キネマ旬報ベスト・テン 日本現代映画部門第3位
日本が満州国建国を宣言。 1932 『春は御婦人から』*
『大人の見る絵本 生まれてはみたけれど』
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門第1位


『青春の夢いまいづこ』



『また逢ふ日まで』*
 小津監督初のサウンド版。
ドイツにヒトラー政権が誕生。
日本が国際連盟を脱退。
1933 『東京の女』


『非常線の女』


『出来ごころ』
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門第1位
  1934 『母を恋はずや』


『浮草物語』
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門第1位


父・寅之助が狭心症の為、死去。享年69歳
  1935 『箱入娘』*
『東京の宿』
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門第9位


『菊五郎の鏡獅子』
松竹の撮影所、蒲田より大船へ移転。 1936 『大学よいとこ』*
『一人息子』
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門第4位。

茂原英雄のトーキーシステムの完成を待って製作された自身初のトーキー作品であり、最後の蒲田撮影所作品。
母、弟と高輪(現・東京都芝区)の借家に転居。
日中戦争勃発(1937年~1945年)
会社より、時節柄ネガ・フィルム2割高の為、節約を命ぜられる。
1937 『淑女は何を忘れたか』キネマ旬報ベスト・テン 日本映画部門 第8位


小津の原作を内田吐夢が監督した『限りなき前進』が公開。
召集を受ける。上海へ渡り、以後、各地を転々とする。
9月17日 小津監督の友人であり、監督の山中貞雄が戦病死。

『また逢ふ日まで』『東京の女』『東京の宿』主演の女優・岡田嘉子が、演出家・杉本良吉と樺太国境を越えてソ連へ亡命。
1938  
パーマネント廃止・ネオン廃止。 1939 召集解除。高輪の家に戻る。
「ぜいたく警告」「贅沢品は敵だ」の立て看板がはりめぐらされる。
英語を敵性語とし、排斥が進む。野球用語も「ストライク」は「よし1本」「アウト」は「ひけ」などと言われた。タバコ改名「バット」は「金鵄」「チェリー」は「桜」。

内務省が芸能人の外国名や芸名(ディック・ミネ等)に改名を指示。
ダンスホールが禁止される。
砂糖、マッチ等の生活必需品が切符制になる。
1940 『お茶漬の味』準備。スタッフ、キャストも決定するが、内務省の検閲により、製作中止になる。
第二次世界大戦及び太平洋戦争勃発 1941 『戸田家の兄妹』日本映画雑誌協会映画賞第1位(キネマ旬報ほか、各映画雑誌のベストテンを統合したランキング)
戦線は東西南北に拡大、連戦連勝のニュースが報道される。

内閣情報局より、劇映画の製作が松竹、東宝、大映の三社に限定された為、製作本数が激減。
1942 『父ありき』雑誌「日本映画」選出の第一回日本映画賞受賞。日本映画雑誌協会映画賞 第2位


陸軍情報部企画の「大東亜映画」のうち、『ビルマ戦記(遙かなり父母の国)』の担当に決定される。
日本軍は各戦線で敗退に転じたが、報道が制限されていたので国民は事実を知らなかった。 1943 『遙かなり父母の国』は中止となったが、インド独立をテーマとした『デリーへ、デリーへ』の為、軍報道部映画班として南方へ従軍、主としてシンガポールに滞在する。
終戦 1945 報道部の検閲映写室で、連夜、接収したアメリカ映画を観る。
終戦をシンガポールで迎える。捕虜生活の後、翌年(1946年)帰国。
日本国憲法公布 1946 野田(現・千葉県野田市)に借家を見つけて住むようになった。
日本国憲法施行

第一次ベビーブーム(1947年~1949年)
1947 『長屋紳士録』戦後の復帰第一作。


この時期より、脚本執筆に茅ケ崎館を使うようになる。
  1948 『風の中の牝鶏』キネマ旬報ベスト・テン第7位
  1949 『晩春』キネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール作品賞、監督賞、脚本賞などの賞を得る。
朝鮮戦争勃発 1950 『宗方姉妹』この年度の興行収入第1位となる。キネマ旬報ベスト・テン第7位
  1951 『麦秋』芸術祭文部大臣賞、キネマ旬報ベスト・テン第1位。毎日映画コンクール日本映画賞、ブルーリボン賞監督賞、東京都民映画コンクール第1位などを受賞。
第15回オリンピック・ヘルシンキ大会に日本が戦後初めて参加。 1952 『お茶漬の味』
大船撮影所内の小津の監督事務室があった事務所本館が全焼。
北鎌倉山内へ転居、母と住む。鎌倉在住の里見弴ら、文人との交流が始まる。
NHKがテレビ本放送を始める。
映画製作各社間によるスター引き抜き防止策として五社協定が調印される。
1953 『東京物語』芸術祭文部大臣賞、キネマ旬報ベスト・テン第2位
  1954 小津安二郎、齋藤良輔脚本の『月は上りぬ』(田中絹代監督)が公開。
高度経済成長期に突入。
この頃より電気冷蔵庫、洗濯機、テレビが「三種の神器」と呼ばれる。
1955 初代の溝口健二に代わり、日本映画監督協会理事長に就任。
『早春』キネマ旬報ベスト・テン第6位


『早春』までは、茅ケ崎館にて脚本を執筆していたが、『東京暮色』以降は蓼科高原(長野県茅野市)にて執筆を始める。
  1957 『東京暮色』


俳優・佐田啓二の結婚の媒酌を、木下惠介監督と二人でつとめる。
東京タワーが完成。 1958 『彼岸花』自身初のカラー作品。キネマ旬報ベスト・テン第3位、芸術祭文部大臣賞、都民映画コンクール金賞受賞


『東京物語』がロンドン国際映画祭でサザーランド賞を受賞。海外でも注目を浴びるようになる。
紫綬褒章を受章。
天皇陛下ご成婚パレードの生中継を見る為、テレビが爆発的に普及。 1959 芸術院賞を受賞。
『お早よう』


『浮草』
カラーテレビの本放送が始まる。
大島渚監督『青春残酷物語』を皮切りに、松竹ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれる監督達の作品群が発表される。
1960 『秋日和』キネマ旬報ベスト・テン第5位
「上を向いて歩こう」「スーダラ節」が流行。 1961 第8回アジア映画祭(フィリピン・マニラ)で、『秋日和』により、小津が監督賞、厚田雄春が色彩映画監督賞、中村伸郎が男優助演賞をそれぞれ受賞する。
文部省の昭和35年度芸術選奨に、野田高梧と共に選ばれる。
『小早川家の秋』
  1962 母・あさゑ死去。
『秋刀魚の味』


キネマ旬報ベスト・テン第8位、第17回毎日新聞映画コンクールで、厚田雄春が撮影賞受賞。
芸術院会員に選ばれる。
  1963 次回作の題名を『人参と大根』に決定。
癌が発覚。
12月12日 60歳の誕生日に逝去。晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺の墓に眠る。
没後、昭和38年度NHK映画賞特別賞、東京映画記者会によるブルーリボン賞日本映画文化賞が贈られ、また、勲四等に叙せられる。
  1965 次回作に準備していた『大根と人参』(小津安二郎原案)を渋谷実監督が映画化。
  1966 小津が里見弴とともに書いた原作『暖春』を中村登監督が脚色・監督し映画化。
  1993 生誕90年を記念して東京国際映画祭特別招待作品として「東京物語~リニューアル・ニュープリント版~」がオープニング上映。オーチャードホールにて、ゲストはヴィム・ヴェンダース、中井貴一、香川京子。
その後、全国13館でリバイバル・ロードショー(併映:小津と語る)が行われた。
  2003 生誕100年を記念して国内外でイベントや上映が行われた。ベルリン、香港、ニューヨーク、東京国立近代美術館フィルムセンターで小津作品全作ニュープリント上映。12月11、12日には東京の有楽町朝日ホールで小津安二郎生誕100年記念シンポジウム「OZU2003」が行われた。コーディネータを蓮實重彦、山根貞男、吉田喜重が務め、パネリストにペドロ・コスタ、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)、アッバス・キアロスタミ、青山真治、黒沢清、是枝裕和、淡島千景、井上雪子、岡田茉莉子、香川京子。
  2012 英国映画協会発行の「サイト・アンド・サウンド」誌が発表した世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画で、「東京物語」が1位に、批評家846人の投票では3位に選ばれた。
  2013 生誕110周年を迎える。